梅満開のうららかな令和8年2月22日(日)、事務局長の仲田昭一が「藤田東湖の獄中記 ー蔵奉行秋山魯堂を称えるー」と題して講演しました。参加された大勢の方々が、藤田東湖と秋山魯堂の至誠溢れる話に熱心に耳を傾けていました。  

 

1. 藩主斉昭の処罰に連座した藤田東湖

 天保15年(1844)5月3日、藩主斉昭は藩政改革の行き過ぎを以て幕府から隠居謹慎の処分を受け、藩政補佐の責任者として家老戸田忠敞と側用人藤田東湖も連座して蟄居謹慎を命ぜられる。時に東湖は39歳、斉昭が失脚して以降水戸藩は混迷が続き悲惨な幕末を迎えることになる。

 東湖は、はじめ上屋敷小石川の一角に幽閉され、後に小梅下屋敷の倉庫群に移される。その幽閉ぶりは厳しく、隣人のわずかに米や塩で凌いでいた。また水も乏しくわずかに口すすぎ手洗いと洗面のみであり、行水もままならず、衣服は汗に染まり臭気鼻を衝いた。肌には垢がたまり、痒みに堪えかねてひとたび皮膚を掻けば虱が爪に入っているというありさまだった。

 東湖はこのような悲惨な幽閉中も「かえって閑暇を得られた」と、盛んに読書・著述に励んだ。この時に著した『回天詩史』は、東湖三大著述の一つで、これまでの半生を回顧し、結びに「苟も大義を明らかにして人心を正さば、皇道なんぞ興起せざるを患えん、この心奮発神明に誓う、古人云う斃れてのち已むと」と、自らの決意を明確にしている。

 

 

2. 秋山魯堂

 秋山魯堂は、天保8年(1837)蔵奉行となって水戸藩下屋敷のある、隅田川の河岸に赴任した。剣術の指南の魯堂は、そこに新たな道場を設けて、部下やその子弟を剣術でもって育成に励んだ。

 22歳後輩の側用人藤田東湖に、道場の「名称」と由来を記した「記文」を依頼していた。しかし、東湖は多忙のうえ、お互いに役目も変わって、約束は果たせないまま時が過ぎていた。

 魯堂の人柄・職務への姿勢については、親交を深くしていた東湖が「水哉舎の記」の中で明らかにしている。この記は、幽閉されて余暇を得た東湖が、やっと約束をかなえる時が来たとして弘化2年(1845)に作ったものだ。

 

3.「小梅水哉舎の記」

① 水主忠介が語る魯堂

 幽囚中のある日、水主(かこ)忠介と魯堂のことが話題になった。忠介は憂い悲しみの様子を見せて語った。「小梅の屋敷は風紀がきわめて悪く、役人は不正に財を貯え、怠惰であり盗みはするし、酒に溺れ博奕に明け暮れていた。それが、秋山様が蔵奉行としてお出でになられてからは邸内の気風が一変し、若者は読書に励み、壮年は剣術の鍛錬に精を出すようになった。秋山様が水戸に移られた後の今となっても、私のような下卒でも必ず双刀を帯び、お互いに口を開けば人の道を論ずるようになったのは、すべて秋山様のお働きの賜物。秋山様のその部下に対する態度は、厳しいけれども公正で思いやりのあるものだった。若い者を指導する場合は、必ず国家(藩)の御恩に報いることを根本として教えられた。蔵奉行秋山魯堂様が去られたことは、この小梅邸にとってまことに不幸なことだ」と。

 

② 東湖は感嘆して云う

 魯堂は大きな志を持って古の賢人を模範とし学ぶところがあった。蔵奉行としての日々の仕事などは、ほんの小手先技のようなものであろう。しかも、退任して去った後もこのように慕われているということは、彼の教化の力が非常に優れていたことの証明でなくて何であろうか。自分が依頼されていた剣道場(舎)の名称を「水哉」(すいさい・水なるかな)と名付けた。舎が墨田川の畔にあるからだ。

 

③ 続けて「水哉」について云う

 孔子は水を称えて「水なるかな、水なるかな」といい、「行くものはかくの如きか、昼夜を舎(お)かず」と云っている。流れは常に止まず、穴があれば必ずそこを満たして止まることがない。魯堂も常に学問に励み、その徳化の流れも止まることはないだろう。

 

④ さらに云う

 「世道に激変あり、人生に危機あり」とはまことのことなり。しかし、源が残っているかぎりは必ず甦る。この水哉舎は小さいが、魯堂が始めたものであり、魯堂がこの舎を建てた志は国恩に報いることであった。これは、さらに遡れば斉昭公が大義を明らかにし、文武を奨励したその成果であることは明白だ。

 ああ、水哉舎はまことに微々たる存在だが、その精神の源泉ははるかに遠く流れ来たっている。それは、利根川や墨田川が洋々満々として流れが絶えることの無いのと同じだ。後の世の人はこのことをよくよく考えて欲しいことだ。

 ちなみに、魯堂の名は忠彦、水主の忠介の名も魯堂が名付けたという。「忠」の意味するところは実に大きい。

 

講師は最後に語る

 水主といえども忠介、身に双刀を帯び人道を深めつつ水戸藩の藩員として忠実に職務に専念している。さすがに魯堂が名付けただけのことはある。魯堂奉行の学問・人柄に触れて敬服・憧憬し、「秋君の去れるは実に一邸の不幸なり」と断じた。忠介よ、よくぞ語ってくれたものと感心する。東湖も魯堂の学問の深さ、生き方を見抜き奉行職などは「その余事なり」と評した。

 人、多くはその職務に汲々とし不平を漏らすこと平生なり。われわれも「水哉」の如く、人生の根源を確立し、常にそれを深める努力を怠らないことだ。「もう年だよ」とよく云うが、「よく老いる」ためにも深く志を掘り耕し続けることが肝要であろう。