令和7年12月14日(日)、当会事務局長の仲田昭一が「赤穂義士と水戸の士魂」と題して講演しました。月日も討入前日に当り、話題性の高いものでした。往年の方々にはなじみの深いものですが、今の若者には如何に映るのかの懸念はあります。

 しかし、この事件は様々な課題を含んでおり、学ぶところは多いものと思っております。
 播州赤穂藩の城主浅野家は、真壁や笠間を経て赤穂へ移っただけに、両地にはいまだに関係者のご子孫が住まいされ、先祖への誇りを大事にしています。義士の一人勝田新左衛門のご子孫も参加されて、先祖が武士としての矜持を貫いた至誠に、改めて感激しておりました。
 以下に、学びの一端を紹介しておきます。
   
1. 藩主浅野内匠頭長矩の無念
 儒者山鹿素行の「武士道」を、家老大石内蔵助良雄と学んでいました。殿中ではご法度の抜刀、今までの耐えきれない恥辱と悔しさからか、生来の短気が勝ったのか、学問ではその気性を矯められなかったのか。御家断絶は多くの浪人を生むことになる。ここの判断は、如何なものであったのか。現在のパワハラ事件等と関連して深刻な問題でした。


令和6年12月14日 笠間稲荷神社境内  笠間義士会


2. 家老大石内蔵助の決意
 当時として、喧嘩両成敗の裁定が下された結果、儒者の中でも裁定には賛否両論に分かれました。しかし、大石内蔵助は納得せず、山鹿素行の教えの「忠義を尽すこと」に徹し、慎重に事を進めました。人心を一致させることを最も重要視し、同志を固めた姿からは、まさに「学問の力」を感じ取ることが出来ます。そこに至るまでには、さまざまなドラマが展開されましたが、その決心から完遂までは、今日の私どもにも学ぶところが実に多くあります。
 
3. 義士小野寺十内の心情
  京都屋敷の留守居役であった小野寺十内(61歳)は養子や一族で参加しました。妻に与えた書簡には、「御恩を忘れず、しかもそれは先祖代々が受けた浅野家への御恩である」とあります。「御恩返し」の観念が薄れつつある今日の我々に、深い反省を迫るものでもありました。大事な資料として挙げておきます。
 我等は存じの通に、当御家(浅野家)の始めより、小身ながら今迄百年御恩にて、各々を養い、身温かに一生を暮らし申し候。今の内匠殿に格別の御なさけには預からず候えども、代々の御主人くるめて百年の奉恩、また身不肖にも小野寺氏の嫡孫にて候・・・・かようの時にうろつきては、家の疵、一門の面汚しも面目無く候ゆえ、せつに至らば、心よく死ぬべしと、たしかに思い極め申し候。老母を忘れ、妻子を懐わぬにてはなけれども、武士の義理に命をすつる道、是非に及ばぬ所と合点して、深く悲(なげ)き給うべからず。

4. 水戸の士魂
 三代藩主綱条に対して家臣の一人が言上します。「かような侍を死なすことはもったいない。当藩で貰い受けては如何か」、綱条公曰く、「大藩の水戸に人物無しと見られよう。しかも彼らは確かな死を決意している。かなえてやるのが彼ら義士の名誉でもある」と。
 9代藩主斉昭は、義士の一人武林隆重の脇差を所要していた。それに「大和魂」と名付けて側医師の松延年に与えた。それを知り、感激した側用人藤田東湖は「大和魂刀に題す」の詩を詠んだ。他の儒者も赤穂義士を称える詩を詠んでいます。
 ここには、命を懸けて殿の無念を晴らし、御政道を糺そうとした赤穂義士たちへの限りなき尊敬の念が溢れています。水戸の士魂の表れでもあります。

5.「浪士ではなく義士なり」
 赤穂義士事件は、単なる喧嘩ではなく、武士道を賭けた尊い事件であると思います。「華の元禄時代」と称されて、世間では浮き浮きの感情が流れ、戦国時代の緊張感は薄れ、平和ボケに浸っていた中での事件だけに、世間に対して清々しさを与えたことでした。やはり、赤穂浪士ではなく、「赤穂義士」であると思います。