南極探検隊白瀬矗(のぶ)隊長 (2) | 歴史公園の夢と足跡

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城下町未来(吉良の荘)
歴史公園を中心に昔今(夢)の物語を

 我が国で始めで南極探検隊が派遣され


た時の隊長の100周年を記念して、

西尾市の吉良公民館にて    ペタしてね


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南極OB会東海支部幹事長の加藤好孝


氏が「白瀬隊長と南極観測事業」


 の講演会が28日に有りました。


当時発行された白瀬中尉の記念切手 10銭

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   南極探検隊の白瀬矗について


 
文久元年(1861年)6月13日由利郡金浦村(現在のにかほ市金浦)の浄蓮寺で長男として誕生しました。幼名は知教(ちきょう)。
 少年時代の矗(のぶ)は近所で評判の腕白少年で、狐を捕まえようと尻尾をつかみ、その尻尾が切れてしまったということや、可愛がっていた子犬をかみ殺した狼を撃退したり、千石船の底潜りで失敗して死にかけたりなどしたそうです。
明治2年(1869年)矗が11歳の頃、寺子屋の佐々木節斎先生より「北極」の話を聞き探検家を志します。

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先生は矗に探検家を目指

       すなら「5つの戒め」
        

   ①酒は飲まない
   ②煙草は吸わない
   ③茶を飲まない
   ④湯を飲まない
   ⑤寒中でも火にあたらない
  を守りなさいと教えました。      
 

  矗は生涯これを実行しました。


 明治12年(1879年)「僧職にあっては探検ができない」と軍人を目指し、陸軍教導団騎兵科へ、400人中5番目の成績で入団。その際、「知教」という名から「矗」と改名しました。
 明治26年(1893年)将来の北極探検に備えて千島探検を目指し、2度にわたって千島での越冬生活を行っています。この時の探検が後の南極探検に役立つ貴重な探検と知識をもたらしました。
明治38年(1905年)日露戦争で「黒溝台の会戦」に参加し、その年の11月に中尉に昇格。
 明治42年(1909年)アメリカの探検家ピアリーが北極点の踏破に成功したことを知り、探検の目標を北極から南極へ転換します。

   

  南極船海南丸 歴史公園の夢と足跡

 

 積載量が僅かに204トンという木造帆漁船を買い取り、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施され、東郷平八郎 によって「開南丸」と命名された。極地での輸送力は29頭の犬だった。


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 明治43年(1910年)南極探検に関する請願書を帝国議会へ提出し、議会では3万円に減額し可決されましたが、政府からの援助金はありませんでした。

 同年7月、大隈重信伯爵を会長とする南極探検後援会が発足しました。

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7月3日の朝日新聞上に「身体強健にして係累なきもの」を資格として隊員を募集。300人もの応募者の中から28人が


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 11月21日木造帆船「第二報效丸」を改装し、18馬力の補助エンジンや鉄板で補強を行い、 11月29日「開南丸」が東京芝浦出航


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 4月より西尾市成りました、吉良町で毎年行われている慰霊祭は9月 4日(日)午前10時30分から、西林寺で営まれる。


なお企画展は8・27~9・1までと

       9・6~11まで行われます。


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吉良の里に咲く憩いの農園手前

夾竹桃(きょうちくとう)の桃色が素敵に咲いていた。

       

       花ことば


 危険な愛用心油断大敵危険


枝をバーベキューで箸や串として使用した後に、

多数の死者が出たという事例がもある。


                 撮影日8・29

  







ご縁があり、訪問頂き

 皆様に ありがとうございます。

   

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   案内人ようさん