もののけ姫を見て思ったこと
①アシタカの一族について:
アシタカの一族は狩猟民族です(⇔農耕民族)
"大和との戦に敗れ五百十余年"という台詞からも窺えるように
アシタカの一族は蝦夷です。
実際にジゴ坊がアシタカの一族を"赤獅子に跨った、石の鏃を使う勇猛な蝦夷の一族"と断定しているシーンもあるように。
また烏帽子殿がアシタカの出自を問うた時に「北と東の間より」と答えていますが要は東北地方のことで
東北地方の蝦夷(狩猟文化)を保持しているが、淘汰されつつある民族であると考えることができます。
蝦夷というのはひどく漠然とした名称であって具体的にどこか特定の地域を指すわけではありません。
狩猟文化を持った大和民族と対象化されるときに使われる言葉であり、古く大和朝廷の時代は関東地方のに住んでいる人々を蝦夷と呼びました。
時代は下り平安時代になると農耕文化が拡大し、蝦夷と呼ばれる人々は東北地方まで後退します。
この時、大和朝廷の威光に服する者を熟蝦夷といい、服さないものを荒蝦夷と言いました。
更に時代は下り江戸時代になると蝦夷は現在の北海道のことを指すようになり、これは具体的にアイヌ民族のことを指します。
②で特定しますが、15、16世紀には東北地方に蝦夷はほとんどいなかったと考えられます。
しかし、山奥深くに蝦夷の一族が生き残っていたという設定なのでしょう。
そう仮定するとヤックルは大蝦夷鹿ではないかと考えられます。
蹈鞴場の人々などアシタカが西に行くと珍しがられる動物であるので、東北地方固有の生き物であると考えられるからです。
またアシタカが持つお椀が"雅な"漆器であることもそれを裏付ける一助となります。
漆製品は、平安時代末期に奥州藤原氏が隆盛した頃に、多くの職人を招いたという由来があり、
以降漆産業が盛んになります。アシタカが漆の雅な器を持っているということもそういったわけなのでしょう。
またアシタカの一族の婆様が占いをしていたのは太占の一種でしょう。
本来は鹿の骨を焼くことによって吉凶を占う日本の古代の占い方法です。
このようにアシタカの一族(蝦夷)は日本古来のアニミズム(精霊信仰)を有している一面があり、
それは祟り神を倒したときに婆様が"この地に塚を築きあなたの御霊を鎮めます"と言ったところからも窺えるのではないでしょうか。
②時代の選定:
次にもののけ姫の時代背景の特定をしていきます。
先にも引用した台詞「大和との戦に敗れ五百十四年」というのがキーです。
大和朝廷と蝦夷との大きな合戦は多くありますが、ここでは前九年の役(1051-1062)、後三年の役(1083-1087)を指すものと仮定します。
そうするとそこから500年経過しているとすると多少のタイムラグはあるかもしれませんが、15、16世紀だと仮定できます。
次に鉄砲の伝来(1543)が重要です。
烏帽子殿が最初に貸し与えられた40名の石火矢衆、これは要するに鉄砲隊です。
鉄砲の伝来の年を考えるとこれが時代的に符合してきます。
またアシタカが田舎侍の小競り合いに巻き込まれる最初の方のシーンでは、まだまだ弓が主流の戦場が描かれていたことを考えると、鉄砲が急速に普及した織豊政権より以前の戦国時代であると考えられます。
③地域の特定
次に地域を特定していきます。
獅子神の森がモデルとされたのは屋久島、これは有名ですが、
時代背景的要素としてモデルとされた場所はどこかを考えていきます。
まず烏帽子殿という、サムライに従わない土着の勢力、かつまた、鉄砲を生業とする集団と考えると
紀伊国(和歌山県)の雑賀根来衆という仮定が一つ浮かび上がってきます。
雑賀根来衆は戦国時代、とても有名な鉄砲傭兵集団でした。
また烏帽子殿が争う相手として、"浅野の大侍"が出てきます。
時代背景的には多少時間が前後しますが、江戸時代初期に浅野幸長が和歌山藩に封じられます。
実際に雑賀根来衆と浅野家は大坂の陣を巡って一揆的な反抗を見せ争ったという経緯もあります。
これらのことを踏まえると舞台は紀伊であるのではないか、と仮定できます。
和歌山県は神武東征伝などに出てくる記述からも森が深いことなどがわかりますし、獅子神の森の背景としても十分な要素を持っているのではないでしょうか。
④烏帽子殿とジゴ坊の関係性について:
③でみたように、蹈鞴場、烏帽子殿という人々は雑賀根来衆だと仮定しました。
その過程に基づいて、ジゴ坊との関係を考えると、ジゴ坊は本願寺系の人物ではないか、
と考えられます。
まず、雑賀衆は悉くが浄土真宗の門人であり、織田信長が一向一揆殲滅を図って石山合戦(1570-1580)が始まると雑賀衆は信長に反抗し、それによって織田信長は大変な苦戦を強いられたという事実がありました。
つまり本願寺にとって雑賀衆は当時最新の兵器に熟練した技術集団で重宝する存在であったということができます。
これは烏帽子殿とジゴ坊の関係に似ています。
唐傘連という権威をもったジゴ坊と、石火矢という技術を持った烏帽子殿。
⑤その他1"蹈鞴踏み"について
烏帽子殿の砦である蹈鞴場での製鉄方法についてですが、
蹈鞴踏みというのは日本固有の製鉄方法です。
特に砂鉄から製鉄をするときに、鉄に含まれる酸素を飛ばすために炉内に風を送るために蹈鞴を踏むのですが、その火を起こすためには大量の木炭が必要であるので、蹈鞴場の周りの森は禿げていくんですね。
⑥その他2"町や侍の武装
アシタカが米を交換するために町で砂金を見せるシーンがありましたが、これはどうも室町時代に成立した六斎市をモチーフにしているのではないかと考えました。
月に6回開催される市に設けられた販売座席であり、座席銭を領主に支払うことによって販売座席を領民が獲得するということです。
また見世棚のようなものも見受けられました。これも同時代に成立したもです。
侍の武装については、侍たちが持っているものは大振りの和弓であるのに対して、
アシタカが持っているのは騎馬民族が持っている特有の短弓であるというてんも特徴的でした。
短弓は騎馬に乗っていても扱いやすいという特徴があり、しかし貫通性に欠けるという反面もありました。
また多くの侍の一般的な兵士が持っていた武器として長巻があげられます。
これもすごく特徴的で、長巻は元々鎌倉時代に武器の主流として登場したものでした。
鎌倉時代の個人先方に対して、戦国時代には長槍による集団戦法が一般化してきますが、槍を上手く扱えない下級兵士には長巻を与えるなどといった記述などもあり、戦国時代と雖も、完全に淘汰されていなかったという事実も指摘できます。
集団戦法には不向きと言う長巻の特徴があり、そのために次第に長巻は姿を消していきますが、
こういった側面を見ると、時代背景としては完全に戦国時代ではなく
それより多少前時代的な、室町時代の要素も含んでいるのではないかな、と思わせられる一面もありました。
⑦その他3"烏帽子殿の庭にいる患者たち"
彼らは純粋にらい病患者ではないかと考えました。
⑧その他4"鎮西の乙事主"
「海を渡ってきたに違げえねえ」と言ってるように乙事主は九州地方の出身のようです。
⑨その他5"天朝の書付"
ジゴ坊の持つ書面として一瞬だけ天朝(帝)の書付が登場しますが、
烏帽子殿を始め、蹈鞴場の人々は天朝がなんだかわかりません。
天皇の権威が失墜していた戦国時代の様相を一つ描いていると言えるのかもしれません。