まず鷗外は、古い言葉の消滅可能性を提示している。

つまり、古い言葉をそれまでの用法の範囲内で使うことに固執していると、

その言葉を使う機会がなくなり、いずれ忘れ去られ、消滅してしまう。

 

古い言葉の核心や良さを残しつつも、

時代の変化に合わせてその用法も変化させていかないと、古い言葉は生き残れない。

時代に合わせて、言葉の用法を新たに開拓し、

言葉に新たな意味を付与していくことによって、

言葉は新たな価値を持ち、生き続けるということである。

 

このことは言葉に限らない。

つまり、「伝統」というものも、

古い時代の「伝統」をそのままの形で保持し続けるだけでは生き残れず、

「伝統」を革新していくことによって、「伝統」は新たな意味や価値を持つようになり、

新たな時代においても生き残ることができるということでもあろう。

 

そしてまた、このことは言葉や伝統だけにとどまらない。

人間もまた然りである。

古い時代や発想に固執しているだけの人間は、時代の変化に取り残され、生き残れない。

自分の核心・中心軸は変えずに、時代の変化に合わせて、

自分の価値や生きる意味を新たな視点から位置付け直すことである。

言葉や伝統と同じように、

自分の活かし方を従来の発想にとらわれず捉え直し、

時代が変化する中でも、自分の新たな価値を見出すことが重要である。

絶えず変化していく時代・世界の中で、

自分の活かし方を絶えず革新していく。

そのような生き方の大切さが、鷗外の主題ではなかろうか。

 

また、もう一つの大きな主題がある。

鷗外は、

「わたくしはこの空車の行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。」と述べているが、

これとほぼ同じ表現を繰り返し、

空車を見送ることを禁じ得ないのだと、再度述べている。

 

ここでいう「空車」というのは、大きくはあるが、荷を積んでいない車だと、

鷗外はあえて強調している。

荷を積んでいない、文字通りの空車……。

 

つまりこの空車とは、

一見したところ何の役にも立っていない車ということになる。

何の役にも立たないものから目を離すことができないと、鷗外は述べているのである。

 

続けて鷗外は、

その何の用もなしていない空車が

「空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。」と述べ、

さらに、空車の馬の口を取っている男は、

「大股に行く。この男は左顧右眄することをなさない。

物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることもなさない。

傍若無人という語はこの男のために作られたかと疑われる。」と書くのである。

 

つまり、何の用もなしていないものが、

そうであるがゆえに、人々にその存在の大きさを感じさせ、

何らかの畏怖の感情を起こさせていると、鷗外は評価するのである。

すなわち、何の用もなしていないものだけが持つ、

自分という軸だけで坦々と動くもの、

それでいて一種無欲で煩悩がないがゆえの力強さ、

神々しさのようなものを、

周囲に向かって放っているのである。

 

さらに鷗外は、

この車にあえば、あらゆるものが避ける、

それでいて、この車はただの空車に過ぎないのであると述べ、

そして最後には、

「わたくしはこの空車が何物をかのせて行けばよいなどとは、かけても思わない。」

と、結ぶのである。

 

これは、「無用の用」という箴言に連なる。

一見何の役に立つか分からないものが、分からないがゆえに持つ無限の可能性……

何かのために生きているわけではない。

何かの役に立っているわけではない。

しかしだからこそ、そのものが秘める、

自分という不動の軸によってのみ動くという純粋な動機。

まさに、何かに集中・没頭している真摯な姿に心打たれ、声も掛けられないひと時。

そこに、限りない強さ、何物にも揺るがされない、己のみが知る論理によって運動する

純粋な肯定が見出されるのである。