ワシントン会議は、1921(大正10)年11月から翌年2月までワシントンで開催された国際会議です。

 

 

 

 

この会議によって、次のような諸条約が締結されることになりました。

 

 

 

 

四カ国条約

 

 

 

 

この条約は、日本・イギリス・アメリカ・フランスの間で結ばれた太平洋問題に関する条約です。

 

 

 

 

発効は1923(大正12)年で、有効期間は10年。太平洋の島々における相互の権利尊重、現状維持をはかったもので、条約発効とともに日英同盟協約が廃棄されることになりました。

 

 

 

 

九カ国条約

 

 

 

 

この条約は、日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国との間で結ばれた中国に関する条約です。

 

 

 

 

中国の主権尊重・領土保全と門戸開放・機会均等などを規定しました。

 

 

 

 

日本は第一次世界大戦中、欧米列強がヨーロッパでの戦争に全力を注ぎこんでいる間に、日露戦争での講和条約であるポーツマス条約でロシアから譲り受けた南満州の権益の期間を大幅に延長してその安定化をはかるとともに、第一次世界大戦開始後に日本が占領した山東省の旧ドイツ権益の利益を引き継いで、中国での勢力の拡大をはかろうとしていました。

 

 

 

 

このため、日本の大隈重信内閣は「二十一カ条の要求」を中国の袁世凱(えんせいがい)政府につきつけて、その大部分を承認させるのです。

 

 

 

 

これを契機として、中国国内には激しい反日気運が高まり、欧米列強は日本の中国進出に対して警戒心を強めました。

 

 

 

 

ところでアメリカが日露戦争で日本に好意的立場をとり、日露間の講和を仲介したのはなぜでしょうか❔

 

 

 

 

それは、ロシアが満州を独占的に支配することを警戒したためでした。

 

 

 

 

ロシアによる満州独占を排除するべくロシアと戦争した日本に対して、アメリカは好意的姿勢を示しました。

 

 

 

 

しかし日露戦争後、日本の南満州への進出が盛んになると、満州の鉄道・市場に強い関心を持っていたアメリカと対立することになってしまいました。

 

 

 

 

二十一カ条の要求」で南満州における権益強化をはかる日本に対して、アメリカは警戒心を強めることになります。

 

 

 

 

こうした中、日本はアメリカと中国における利害の調整をはかる必要性に迫られることになるのです。

 

 

 

 

1917(大正6)年に結ばれた「石井・ランシング協定」によって、アメリカは中国における日本の特殊権益を認め、また日米両国は中国の独立と領土保全・門戸開放・機会均等の原則を確認することになりました。

 

 

 

 

この「石井・ランシング協定」が九カ国条約によって、廃棄されることになります。

 

 

 

 

四カ国条約九か国条約の締結の結果、日英同盟協約石井・ランシング協定が廃棄されたことからわかる通り、アメリカは日本の孤立化をはかっていきました。

 

 

 

 

アメリカは、第一次世界大戦中の東アジアにおける日本の膨張を抑制しようとしていました。

 

 

 

 

日本は第一次世界大戦後の国際政治の主導権を掌握しつつあったアメリカと協調関係を確立して、国際的な孤立化の危機を回避する目的から積極的に条約調印を行っていきます。

 

 

 

 

ワシントン海軍軍縮条約

 

 

 

 

この条約はアメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5ヵ国間で調印され、主力艦の保有比率をアメリカ・イギリス各5、日本3、フランス・イタリア各1.67とし、今後10年間老朽化しても代艦を建造しないことを定めました。

 

 

 

 

アメリカは、アメリカ・イギリス・日本の建艦競争を終わらせて自国の財政負担を軽減することを目的に海軍軍縮会議を開催したのですが、日本としても巨額な軍事費の支出の結果、国家財政の健全な運営が困難になりつつありました。

 

 

 

 

日本としても軍事費を抑制する必要性に迫られていたため、海軍内では軍縮に対して不満が噴出することになりますが、この不満を抑えて条約の調印が行われました。

 

 

 

 

 

 

ワシントン会議においてアメリカは、明確な意図を持ってこの会議を開催し、条約に調印していきました。

 

 

 

 

明確な意図、それは軍艦建造を抑制することで財政負担の軽減をはかり、そして第一次世界大戦中に東アジアに膨張した日本の勢力を抑え込むことでした。

 

 

 

 

アメリカが主導して締結された国際協定は、戦争再発の防止と列強間の協調を目指したもので、それらに基づくアジア・太平洋地域の新しい国際秩序は、ワシントン体制と呼ばれました。

 

 

 

 

アメリカにとって日本は脅威な存在になりつつありました。

 

 

 

 

ワシントン会議は、アメリカをはじめとした欧米諸国が、日本を危険な競争相手とみなし、警戒心を強めたからこそ開かれた会議だったのです。