前回の続きになります😊

 

 

 

 

みなさんは、鹿鳴館と呼ばれた明治前期の洋風建築物を知っていますか❔

 

 

 

 

鹿鳴館は外務省の計画で官設(かんせつ:政府が設置するということ)の「外国人接待所」として、東京府麹町区内山下町(現在の帝国ホテルの南側)に1881(明治14)年に着工、1883(明治16)年7月に落成し、11月28日に盛大な開館祝賀夜会が挙行されました。

 

 

 

 

設計はイギリス人建築家のコンドルです。

 

 

 

 

コンドルは、「日本建築界の父」もしくは「恩人」と称されるほどの偉人です😲

 

 

 

 

主な設計作品に、上野博物館・鹿鳴館・三菱一号館・有栖川宮(ありすがわのみや)邸などがあります。

 

 

 

 

日本文化に興味を持ち、日本文化の外国への紹介にも尽力しました。

 

 

 

 

日本人を妻とし、日本で没しています。

 

 

 

 

鹿鳴館は、煉瓦(れんが)造りの2階建、総建坪466坪の中に、大舞踏室を中心に客室・食堂・奏楽室・喫煙室・玉突場・婦人化粧室等があり、当時もっとも豪華な洋式建築でした。

 

 

 

 

政府高官や外国使節等の舞踏会や音楽会・バザー等が開催されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上に掲げた絵を見たことがありますか❓

 

 

 

 

この絵は、明治初期から中期にかけて、日本の社会・風俗を取材した風刺画を数多く描いたフランス人の画家であるビゴーによって制作されたものです。

 

 

 

 

背の低い日本人が慣れない西洋の服を着て舞踏会に参加しているのですが、鏡には猿がうつっていることからわかる通り、外面だけ西洋化している、まさに「猿真似」している日本人を風刺しているのです。

 

 

 

 

日本政府による必死な欧化政策もあって、日本国内を外国人に開放するかわりに、領事裁判権を原則として廃止する改正案が、欧米諸国によって了承されることになりました😊

 

 

 

 

 

 

しかし!!

 

 

 

 

 

 

領事裁判権の撤廃に関しては、欧米同様の法典を編纂し、外国人を被告とする裁判には半数以上の外国人判事を採用するという条件がついていたのです😨

 

 

 

 

この条件については、政府部内でも国家主権の侵害であるという批判が起こり、井上馨が交渉促進のために採用したあまりに極端な欧化主義に対する反感もあいまって、改正交渉に反対する政府内外の声が強くなっていきました。

 

 

 

 

1886(明治19)年には、ノルマントン号事件が発生し、日本人乗客を見殺しにし、イギリス領事による海事審判でノルマントン号の艦長の過失が問われない事実を知った世論は、不平等条約への反感を強めていくことになりました。

 

 

 

 

政府内部では、明治政府の法律顧問として22年間日本に滞在し、近代日本の法体系形成に多大の貢献をしたフランス人法学者ボアソナードや、小村寿太郎をはじめとする政府高官、農商務相であった谷干城らが、井上馨外相の条約改正案を激しく非難しました。

 

 

 

 

このような中で井上馨は交渉を中止し、外務大臣を辞任することになりました😓

 

 

 

 

井上馨外相の条約改正交渉の失敗を受けて、1887(明治20)年、自由民権運動の最後をかざる反政府運動が起こります。

 

 

 

 

三大事件建白運動です。

 

 

 

 

三大事件とは、(1)言論・集会の自由、(2)地租・諸税の軽減、(3)外交失策の挽回(対等条約の締結)を主張し、世論を重んじない政府はただちに辞職すべきだ!と詰め寄ったのです。

 

 

 

 

井上馨はその後、農商務大臣・内務大臣・大蔵大臣を歴任して、元老となっています。

 

 

 

 

井上馨は財界との結合がとても強く、これを背景に政財界での黒幕の地位を保持し、強い影響を持ち続けた政治家でした。

 

 

 

 

不平等条約下にある日本国の国際的地位の向上に尽力した井上馨は、第一次世界大戦中の1915(大正4)年79歳でこの世を去りました。

 

 

 

 

幕末に締結した不平等条約が完全に改正されたのは、井上馨がこの世を去る4年前のことだったのです。

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