11世紀後半、時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位し、天皇の代理者として地方を支配させるために派遣された国司からの訴えに応える形で、延久の荘園整理令という法令を発令します。
この荘園整理令によって、貴族や寺社の支配する荘園と、国司の支配する公領{国衙(こくが)領とも呼ばれます}とが明確になり、貴族や寺社は支配する荘園を整備していくことになります。
私は11世紀後半に延久の荘園整理令が発令され、日本に公領と荘園という二種類の土地が存在することが明確になったという歴史を学ぶ際に、生徒に次の問いかけをします。
そもそも日本の土地って誰のものなのですか❓
多くの生徒は「天皇のもの❢」と答えてくれますが、私は以下のように説明していきます😊
日本の統治権者である天皇は、天皇が持つ軍事力などを背景に支配領域を拡大していきます。
そして天皇の支配下にある領地を口分田として農民に班給し、口分田を班給することで農民の最低限度の生活を保障する代わりに租税を国家に納入させるのです。
土地税としての租は負担の軽いものでしたが、成人男性を中心に課税される庸・調は大変に重い税であり、この税負担を逃れるため多くの農民が本籍地を離れて、浮浪・逃亡していくことになりました。
庸・調は人頭税、つまり農民個人に課税されていますので、農民が逃げてしまっては税を徴収することができなくなってしまいます😨
そこで天皇は国司の権限を強めて、一国の支配を全て任せる代わりに一定額の税を納めさせる体制に変更してしまいます❢
天皇の命令によって地方に派遣された国司は、地方にいる有力農民と契約を結ぶことで官物(かんもつ)・臨時雑役(りんじぞうやく)と呼ばれる税を納税させるようになります。
国司と契約を結ぶことで土地の耕作を請け負った有力農民は田堵(たと)と呼ばれ、抜群の農業技術で荒廃地であった場所を農作物を生産できる地へと変えていったのです😲
この田堵はさらに土地の開発を進め、11世紀になると田堵の子孫らは開発領主と呼ばれるようになります。
開発領主の中には国司への納税を拒否して、所領を中央の権力者に寄進(寄付する)し、権力者を領主として仰ぐ荘園として、自らは預所(あずかりどころ)に仕える下司(げし)などの荘官(しょうかん:荘園の現地管理者)となる者が現れるようになります。
開発領主は荘園においては、中央の権力者である荘園領主に税を納入することになるわけです。
では荘園にならない地では、開発領主はどのような立場で何を行っているのでしょうか❓
荘園以外は公領です。
原則、天皇権力が及ぶ日本の国土は全て天皇の所有地なのですが、この中に天皇権力の及ばない地である荘園と呼ばれる地が出現することになるのです。
公領は天皇の代理者である国司によって支配され、地方の事情に精通した開発領主は国司が政務を行う国衙(現在の県庁のあたる)で働く役人に採用されることになります。
開発領主などの現地採用の有力者を在庁官人(ざいちょうかんじん)といいます。
開発領主は在庁官人として国司のもとで政治に携わりながら、国司に税を納めているのです。
開発領主は荘園では荘官、公領では在庁官人として存在し、荘園・公領の支配者に税を納めていたのです。
生徒に「開発領主は農民ですか❓」と質問されることがあるのですが、開発領主は農民ではなく武士でした。
鎌倉時代には開発領主が御家人の属性とみなされていたことからもわかる通り、開発領主は武士なのです。
武士は配下にある農民たちを農作業に従事させ、獲得される生産物を集めることで荘園であれば荘園領主に、公領であれば国司に納税する役目を負っていました。
以上の説明から、平安末期の武士が当時の土地制度でどのような立場に置かれていたのかがわかるのではないでしょうか😊❓
武士は荘園・公領のいずれに存在したとしても、地域の治安維持を行うとともに、配下の農民に勧農し、彼らから確実に徴税することで権力者に納税する存在だったのです。
武士は荘園領主、あるいは国司に納税することが重要な仕事でしたので、この仕事を滞りなく行うことに神経をとがらせていたというわけです。
平安末期の武士は、配下の農民から税を集め、上司である領主に税を納めなければならない、中間管理職のような立場に置かれていました。
「徴税と納税」
これが当時の武士に課せられた重大な任務だったのです。
なかなか大変な立場にいたのですね😅