前回の続きになります。

 

 

 

 

松平定信が当時の幼い将軍に語った「大政委任」とは、どのようなものだったのかということでした😊

 

 

 

 

 

 

老中松平定信が当時15歳であった第11代将軍徳川家斉(いえなり)に差し出した『将軍家御心得十五箇条』には、日本の国土と人民は天皇から将軍に預けられたもので、それをよく統治することが天皇への義務だと書かれています。

 

 

 

 

解体新書』を刊行したことで知られる杉田玄白の著書に、『後見草(のちみぐさ)』と呼ばれるものがあります。

 

 

 

 

その書物の中で、杉田玄白は「もし今度の騒動なくば御政事改まるまじなど申す人も侍(はべ)り」と指摘しています。

 

 

 

 

 

1782(天明2)年の東北地方の冷害から始まった飢饉は、翌年の浅間山🏔(長野県と群馬県の境にある火山)の大噴火も加わって、天明の飢饉と呼ばれる大飢饉へと発展していきます😨

 

 

 

 

全国的に百姓一揆が発生し、さらには将軍のお膝元(ひざもと)である江戸でも打ちこわしが起こるなど、将軍の権威・権力が著しく低下する中で、幕府政治の改革が必要とされるようになりました。

 

 

 

 

天明の飢饉に伴う百姓・町人らによる暴動があったからこそ、幕府内部で人事の変更がなされたのだと杉田玄白は述べているのです。

 

 

 

 

ですから老中に就任した松平定信は、古代以来日本の頂点に君臨してきた天皇を最も権威ある存在として位置づけ、その天皇から日本の統治権を預けられたということを強調することによって、将軍・幕府の支配を正当化するとともに、将軍・幕府が持つ権力を高めようとしたのです。

 

 

 

 

 

しかし幕末期になると、ペリー来航🚢などに代表される外圧がもたらす国家的な危機に対処するため、徳川家を一大名に落とし、国政全般にわたる権限を朝廷が集中して掌握するべきである、という考え方が生まれてきます

 

 

 

 

特に1860(万延元)年3月に大老井伊直弼が暗殺されると、幕府制度を改変する必要性が、多くの武士の間で共有されるようになっていきます。

 

 

 

 

このような中、将軍職の廃止と将軍職が持つ諸大名の統率権を朝廷へ返そうとする運動が展開されるようになっていきます。

 

 

 

 

こうした運動は公武合体派(朝廷と幕府の提携による政局安定をはかろうとした派閥)であった越前藩(現在の福井県)薩摩藩(現在の鹿児島県)などによって進められていきました。

 

 

 

 

徳川慶喜は将軍職の廃止などを勧める越前藩薩摩藩などを拒否して第15代将軍に就任するのですが、これに対し薩摩藩クーデターによる幕府体制の廃止を決意し、長州藩と共同して武力を行使する方針を決定します。

 

 

 

 

じつは薩摩藩は、大政奉還方針を採用する土佐藩(現在の高知県)とも提携していました。

 

 

 

 

しかし土佐藩大政奉還案から将軍辞職条項が欠落していたため、大政奉還路線を放棄して武力倒幕に大きく傾いていくのです。

 

 

 

 

 

 

 

幕末期、朝廷(天皇)と結びついて幕府に対抗しようとする倒幕派と、従来通り幕府政治を展開しようとする幕府の間に、「公議政体論」と呼ばれる構想が登場します。

 

 

 

 

独自性を模索していた土佐藩によって採用された「公議政体論」という政治構想は、坂本龍馬によって構想されたとされる「船中八策」が基盤となっていたとされています。

 

 

 

 

原本や写本が存在せず、実在が疑われてはいますが、坂本龍馬が長崎から京都に向かう船中で議論されたとされる国家構想である「船中八策」などを基盤とした「公議政体論」とは、幕府制を廃止し、徳川家を含む諸藩の会議に基づいて政策を決定する体制を目指す議論です。

 

 

 

 

たしかに公議政体論は、徳川家による政治権力の独占を排除し、諸藩による連合政権を作ろうとする考え方なのですが、実質は将軍を議長とする諸藩の会議が想定されており、徳川氏の主導権を認める内容だったのです。

 

 

 

 

徳川慶喜はこの公議政体論を基盤とした土佐藩からの大政奉還の提案を受け入れます。

 

 

 

 

こうした動きに対して、当時の越前藩士は次のように述べたとされています。

 

 

 

 

徳川慶喜が大政奉還を行った理由は、政権返上を受けた朝廷が政権をもてあまし、朝廷が再び政権を幕府に委任することを見越してのことである。」

 

 

 

 

徳川慶喜が「大政」を朝廷に返上した理由は、朝廷(天皇)の重要性を深く認識し、国内外の情勢を考えた上での行動では決してありませんでした。

 

 

 

 

土佐藩から大政奉還の提案を受け入れた徳川慶喜には、「将軍からいったん政権を朝廷に返し、朝廷のもとに徳川主導の諸藩の連合政権を樹立するという考えが根底にありました。

 

 

 

 

さらに大政を朝廷に返上することで、日本の国土と人民を統治する権限は将軍から朝廷(天皇)に移ることになり、武力倒幕を計画する勢力の機先を制することができます。

 

 

 

 

大政を朝廷に返上することで、倒幕派が幕府(徳川慶喜)を襲撃する大義名分を奪ったのです。

 

 

 

 

大政は朝廷に返上しましたが、実質は将軍を中心とした政治運営を継続することを意図した徳川慶喜に対し、天皇中心の天皇制国家を実現しようとした倒幕派は、1867(慶応3)年12月9日、クーデターを決行し、王政復古の大号令を発して天皇を中心とする新政府を樹立します。

 

 

 

 

こうして、あくまで徳川氏主導の政権運営を目指した徳川慶喜の野望は、倒幕派によるクーデターの前に脆くも崩れ去ることになり、新政府軍と旧幕府軍による武力対立(戊辰戦争)が始まることになります。

 

 

 

歴史はじつに奥が深いものです😊

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