前回の続きになります。
守護大名が戦国大名化する際に、有利に働いた点と不利に働いた点は一体どのような事柄だったのか、ということでした。
前回ご説明したように、守護大名は南北朝の動乱期を経て、強大な権力を保持することになりました。
守護大名は室町幕府の将軍である足利氏によって任命され、任国全体における支配権を確立していきます。
そして軍事的支配者であるばかりでなく、国の経営を円滑に行う経営者としても優れた守護大名は、複数の国の守護を兼務するようになります。
例えば土岐(とき)氏は、美濃・尾張・伊勢の3ヵ国の守護を兼ねていましたし、山名(やまな)氏に至っては西国11ヵ国の守護を兼ね、六分の1殿(日本60余ヵ国の6分の1を持つ一族という意味)と呼ばれていました😲
しかし、これほどまでに強大な支配力を持った守護大名に強い警戒感を持った人物がいました。
室町幕府将軍の足利義満です。
足利義満は南北朝時代を経て強大化した守護大名の力を抑制しようとし、これら守護大名を自ら挑発することで滅亡させています😨
足利義満が将軍に就任する頃にはようやく南北朝の動乱もおさまり、将軍からすれば守護大名の権力は大きな脅威となったのです。
守護大名は南北朝時代に室町幕府から獲得した半済令を最大限活用し、「土地」という武家社会において最も価値のある財を分与することで、国人と呼ばれた地方武士と強力な主従関係を設定しました。
このことは、守護大名が戦国大名に成長するにあたって有利に働いた点であると考えることができます😊
各地方を軍事力と経営力で支配していた優秀な国人集団を家臣化することは、戦国時代を生き抜くために必要不可欠な条件でした。
「土地」を媒介に強固な主従関係を構築し、優秀な家臣である国人を多く保有することは戦国大名化するにあたり有利に働いたことは間違いないはずです。
では不利に働いた点とは何でしょうか❓
守護大名は、足利将軍によってその地位が保証された存在でした。
つまり、将軍の権力が高揚すれば守護大名の権力も高揚するし、将軍の権力が低下すれば守護大名の権力も低下していったのです😨
守護大名の権力は足利将軍の権力に依存したものでしたので、時代とともに低下する将軍権力と運命をともにするしかありませんでした。
室町幕府第6代将軍である足利義教(よしのり)は暗殺され、第8代将軍の足利義政は応仁・文明の乱を止めることができませんでした。
そして時代は下の者の勢力が上の者の力を上回る下剋上の時代に突入し、第10代将軍足利義稙(よしたね)が家臣である細川政元(まさもと)によって将軍の地位を廃されてしまう(明応の政変という)事件が発生するなど、将軍の権力は大きく低下していきます。
下剋上の時代では、大きく低下してしまった将軍の権力など必要とはされないのです。
しかも守護大名は、「守護在京の原則」によって在京して幕府に出仕しなければなりませんでした。
守護大名は自身の任国に長期間にわたって居続けることができない体制のため、守護代に任国の経営を任せるより他ありませんでした。
守護大名は普段、京都にいる。
守護代は普段、守護大名の任国の支配を代行している。
守護大名と守護代では、どちらの方が国の経営に精通しているのでしょうか。
当然ですが、守護代です。
ですから、守護大名が応仁・文明の乱の終結とともに、在京して幕政に参加する体制が崩壊して任国に下ってきたのち、守護代や国人らによってその権力を奪われることになったのです😓
室町幕府の将軍である足利氏の権力を頼り、そして在京して足利氏に仕えていた守護大名は、足利氏の権力の低下の影響を直接受けることになりました。
さらに守護代を通して間接的に任国支配を行っていたため、任国における影響力が弱く、守護代などに権力の座を奪われる要因を作ってしまったのです。
守護大名が戦国大名化する際に不利に働いた点は、まさにここにありました。
戦国大名となった武士が元はどの階層の出身であったのか、という問いはよく見られますが、守護大名が戦国大名化するに際して、有利に働いた点と不利に働いた点を考えさせる問題はとても面白いと思います😊
一見難問のように思われますが、教科書を深めることで解答まで到達することが可能です。
常に「なぜなのか」を考えながら、授業に臨むことが大切です。
歴史を深めるには、必ず「なぜ」という問題意識が必要とされるのです😊