前回の続きになります。
室町時代における守護の権限についてでした😊
守護の権限は鎌倉時代以来の「大犯三カ条」に加えて、1346(貞和2)年に「刈田狼藉」(かりたろうぜき)を取り締まる権限と「使節遵行」(しせつじゅんぎょう)の権限が新たに付け加えられました。
武士同士が田地の境界などをめぐる紛争を起こし、自分の所有権を主張して田の稲を一方的に刈り取る実力行使を刈田狼藉と呼びます。
武士の所領をめぐる争いには刈田狼藉が伴いましたので、守護は刈田狼藉の取り締まりを名目に、管轄国内の武士同士の争いに介入できるようになりました。
また使節遵行とは、幕府による裁判の判決を受け取った守護が使者を現地に派遣し、判決内容を強制的に執行することです。
守護は幕府に代わって、それまで関与できなかった司法の権限を行使することができるようになったのです。
そして守護の管轄国内における権限を一層強めることになった法令が、「半済令(はんぜいれい)」です。
1352(文和元)年、幕府は軍事費用の調達を目的として、特に戦乱が激しかった近江(おうみ:滋賀県)・美濃(みの:岐阜県)・尾張(おわり:愛知県)の3国に限り、1年間だけの約束で、守護に一国内の荘園・公領の年貢の半分を徴発する権限を認めます。
当初は3国に限り、しかも1年間だけという約束でしたが、しだいに全国的にかつ永続的に行われるようになっていきます。
しかも1368(応安元)年には「応安の半済令」が発令され、年貢ばかりか、土地自体を分割することができるようになるのです😲
守護は室町幕府によって発令された半済令を盾に公領(国司が支配)・荘園(荘園領主が支配)を侵略することで、年貢や土地を国人らに分与したのです。
ここが重要なのです❢❢❢
そもそも地方に土着した武士は、一体何のために戦っているのでしょうか❓
地方武士である国人は、北朝・南朝それぞれから味方につくよう誘われるのですが、国人にどのような条件を提示することが有効なのでしょうか。
武士が一番欲しいのは、所領の安堵(あんど)です。
つまり、土地の所有権を権力者に認めて欲しいのです。
ですから鎌倉時代初期の武士は、清和源氏の嫡流である源頼朝と主従関係を結ぶことで、源頼朝のために命をかけて戦う代償として、土地の支配権を保証してもらう約束をしたのです。
国人にとって北朝・南朝のいずれにつくかの決め手は、土地の支配権の保証にあります。
この点において、室町幕府が守護に認めた半済令は絶大なる効果をもたらしたはずです。
それは守護たちがこぞって自己の管轄国内への半済令の適用を訴えたことからも理解することができます。
当初半済令は年貢という現物を徴発できましたので、守護はこの年貢を国人に分与することで国人の被官化(家臣にすること)をはかりました。
しかし年貢の分与では効力として弱いわけです。
のちに年貢のみならず土地自体を分割することができるようになった守護は、この土地を国人に分与することで統制下に組み込んでいきます。
守護は国人と土地を媒介とした主従関係を構築するのです。
守護によって国人の所領が安堵され、戦争協力することで土地が与えられる。
半済令は守護の管轄国統治に絶大なる影響力を与えましたが、国人の被官化に失敗した者は任務を解かれ、新たな守護が送り込まれました。
南北朝の動乱が沈静化する第3代将軍足利義満の頃になると、守護の配置も安定し、守護職は世襲されるようになります。
守護は守護代に領国を統治させ、自らは在京して幕府に出仕するようになります。
どのような階層にある者が守護代に任命されたかは、守護によって異なっていました。
守護に代々仕えている家来を守護代にする場合や、土着している国人から登用する場合がありました。
守護は将軍の居住する京都にいたため、守護代の果たす役割は大変大きなものがありました。
尾張(おわり:愛知県)の織田氏、出雲(いずも:島根県)の尼子(あまご)氏、越前(えちぜん:福井県)の朝倉氏、越後(えちご:新潟県)の長尾氏などは、いずれも守護代から戦国大名化しています。
さあ、上記の説明のなかに、守護大名が戦国大名化する際に、有利に働いた点と不利に働いた点のそれぞれが述べられていました😊
みなさんにはわかりましたか❓
この続きは次回にしたいと思います。