みなさんは、守護大名と呼ばれた人々を知っていますか❓
鎌倉幕府が滅亡し、その後の後醍醐天皇による建武の新政が武士の強い不満の中で崩壊すると、日本は南北朝時代と呼ばれる時代に突入することになります。
日本の皇室は、後嵯峨(ごさが)上皇が死去すると、後深草(ごふかくさ)上皇の流れをくむ持明院統(じみょういんとう)と、後深草の弟の亀山天皇の流れをくむ大覚寺統(だいかくじとう)とに分裂をしてしまいます😲
両統は、皇位の継承や院政を行う権利、天皇家領荘園の相続などをめぐって激しく対立するようになります。
この持明院統から出た光明(こうみょう)天皇を足利尊氏が擁立(ようりつ)することで、京都に幕府を開きます。
これに対して、大覚寺統出身の後醍醐天皇は京都を逃れ、吉野(奈良県)の山中にこもって、自らこそが正統の皇位にあることを主張します。
ここに日本史上初めて、同時代に2人の天皇が存在する南北朝時代が約60年にわたって続くことになったのです😲
この南北朝時代や室町時代には、鎌倉時代同様に「守護」と呼ばれる軍事指揮権を持った武士が存在します。
南北朝時代から室町時代の守護は、鎌倉時代の守護と区別して守護大名と呼ばれるのです。
一般的に室町時代は、足利尊氏が幕府を開いた1336(建武3)年から、織田信長が室町幕府最後の第15代将軍足利義昭を京都から追放した1573(天正元)年までの約240年をさします。
ただ、これに1333(元弘3)年の後醍醐天皇による建武の新政政権発足からを含めることもあり、これらを前・中・後の3期にわけて南北朝時代・室町時代・戦国時代というのです。
ですから狭義には室町時代とは、この中期にあたるわけです。
戦国時代の始まりは、1467(応仁元)年の応仁・文明の乱勃発からなのですが、このあと守護大名は消滅して戦国大名が登場することになります。
南北朝時代・室町時代において絶大なる権力を持った守護大名は、戦国時代では戦国大名となり各地を支配する権力者となりました。
と言いたいところですが、実は多くの守護大名は戦国大名化することができずに没落していったのです😨
室町時代に絶大なる権力を持っていた、あの守護大名が❢❢です…。
以前ある大学の入試問題で、歴史を深めさせるために大変勉強になる出題がありました。
この出題は、授業で生徒に考えさせるアクティブ・ラーニングの教材として活用できるものです😊
「守護大名が戦国大名化しようとした時、守護大名であることのどのような点が有利に働き、どのような点が不利に働いたのかについて論述しなさい。」
守護大名から戦国大名への脱皮をはかることができた有名な武士として、
今川氏(駿河:静岡県)
島津氏(薩摩:鹿児島県)
大内氏(周防:山口県)
武田氏(甲斐:山梨県)
六角氏(ろっかくし・近江:滋賀県)
大友氏(豊後:大分県)
などの諸氏をあげることができます。
こうした守護大名が戦国大名化する時、守護大名であることが有利に働いた点は一体何だったのでしょうか❓
まず、なぜ室町時代の守護大名が絶大なる権力を持っていたのか、そしてそもそも守護大名の権力の根拠とは何かを考えてみたいと思います😊
守護大名は誰から任命されることで存在することができたのでしょうか❓
答えは、将軍足利氏です。
つまり守護大名の権力の根拠は、足利将軍が保有する絶大なる権力になるわけです。
特に室町幕府第3代将軍足利義満などは、本来朝廷(天皇)が持っていた様々な権限を幕府の管轄下におき、初めて全国的な統一政権としての幕府を確立させました。
天皇の権威をも上回る権力を掌握した足利義満は、自ら日本国王として日明貿易を開始し、日本で唯一の貿易権を中国の明から承認されるのです😲
原則、天皇の権威を凌駕(りょうが)する人間は存在しないのですが、一見すると天皇よりも上位に立つまでに成長した足利将軍から認められ、地方支配を行ったのが守護大名でした。
偉大なる足利将軍に任命されたからこそ、守護大名は偉いのです❢
この続きは、次回にしたいと思います😊