みなさんは、「2030」という数値が何を表しているかを知っていますか❓
「2030」とは「2020年に指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という政府が制定した目標数値です。
女性の活躍推進・地位向上につながる重要性な政策ですが、女性の地位は日本の歴史を概観すると決して高いとは言えなかったように感じられます😓
今回題材として深めてみたいのは、鎌倉時代における女性の地位についてです。
鎌倉時代は、源頼朝が鎌倉に武家政権を開いたことに始まる時代で、承久の乱・蒙古襲来(=元寇)などの戦争で武士が戦功をあげるべく奮闘する姿が想像されます。
そうした中で女性はどのような役割を担い、どのような扱いを受けていたのでしょうか❓
鎌倉時代の武士団は、惣領(そうりょう)制と呼ばれる組織で構成されていました。
現在でも本家・分家という言い方がありますが、鎌倉時代にも本家・分家があり、本家・分家の集団は一門・一家(いちもん・いっか)と呼ばれ、本家の首長を惣領{家督(かとく)ともいいます}、その他を庶子と呼びました。
鎌倉時代の武士団は、惣領を中心として他の庶子たちと強固な関係を築くことで時代を生き抜いたのです。
この惣領と庶子の強固な関係は、一体どのようなものに基づいていたのでしょうか。
惣領と庶子を固く結びつけたものが、分割相続と呼ばれた相続形態でした。
分割相続は親の財産を複数の子に譲与する財産相続の形態で、親から全ての子供を対象として比較的均分に近い相続がなされました。
簡単にいえば、子供全員に親の土地がほぼ均等に与えられたということです。
だからこそ、兄弟間における土地をめぐる争いがなく、嫡男(ちゃくなん:正妻の生んだ最初の男子)である惣領を中心にみんなで親から相続された土地を守っていこう、という考え方が共有されることになりました。
ちなみに嫡男が惣領と説明しましたが、実際はそうであるとは限りませんでした。
正妻の長子が優先されたものの、前代の惣領が親権に基づいて本人の器量(=力量のこと)を見定めて決定されました。
分割相続は子供全員で分割して相続するということでしたので、当然女性も男性と同じく財産の分配にあずかることができました。
例えば、ある女性の兄が惣領であった場合、この女性は庶子ということになります。
惣領は一族を代表して鎌倉将軍である鎌倉殿と主従関係を結んで御家人となるのですが、庶子も惣領を通じて間接的に鎌倉殿と主従関係を結ぶこととなり、御家人になることができました。
こうして女性も御家人となり、自らが所有する領地の支配を鎌倉殿から認められ、女性である御家人は地頭として現地で土地の管理にあたるのです。
つまり、女性が御家人・地頭になることができたのです。
女性の地位の高さを物語る事実です😊
しかし、分割相続には一族の結束を強固にするという側面がある反面、困った事態を引き起こしてしまう面も持っています。
それが所領の細分化です。
分割相続ですから、当然相続のたびに土地が小さくなっていきます。
この状況を打開するのは、戦争に参加して功績をあげることで幕府から「御恩」として新しい土地をもらうことで、所領面積を増やすしかありません。
しかし残念ながら承久の乱で朝廷側が領有する土地を没収して、戦功のあった武士に分与して以降、鎌倉幕府が戦功をあげた武士に与えるための土地を獲得する機会がありませんでした。
蒙古襲来は元軍が攻めてくるという国難を鎌倉武士の活躍で乗り切った戦争でしたが、この戦争は元軍を追い払っただけで、鎌倉幕府が新たに土地を獲得したわけではありません。
ですから戦功をあげた武士への恩賞が不十分で、御家人の不満が高まり、このことが幕府の滅亡へとつながっていくことになるのです😨
鎌倉時代後期には、分割相続の繰り返しで子供全員に与えるだけの土地がなくなってしまったために、惣領が全部の所領を相続する単独相続が一般的になっていきます。
こうした中で女性の地位も低下の傾向を見せ始めます。
女性に与えられる財産が少なくなり、また本人一代限りでその死後は惣領に返す約束つきの相続が多くなっていきます。
この相続形態を「一期分(いちごぶん)」といいます。
子供全員に分けられるだけの土地が潤沢にあった時代は、女性の地位も比較的高かったのですが、分与できる土地が少なくなってくるとまず女性の財産分与に制限がかけられるようになり、女性の地位が低下していくのです😓
その時の経済状況が女性の地位を左右したのです。
現在でも同様のことがみられると思うのは私だけでしょうか❓
経済状況の変化が女性の地位の変化に結びつかない社会であることが大切です。
授業では過去を学ぶことで、これからを考えていきたいと思います😊