今回は「承久の乱」における在京の御家人について考えてみたいと思います😊

 

 

 

 

承久の乱とは、1221(承久3)年後鳥羽上皇鎌倉幕府の倒幕をはかって挙兵した事件です。

 

 

 

 

この承久の乱は、在京の鎌倉御家人少なくない人数が朝廷にしたがって幕府軍と戦ったことが知られています😲

 

 

 

 

ここで生徒に質問してみます。

 

 

 

 

どうして東国にいるはずの鎌倉御家人が、承久の乱発生当時に京都にいたのでしょうか

 

 

 

 

鎌倉御家人はどのような役職につき、いかなる任務を担当していたのでしょうか❓

 

 

 

 

 

 

ここでまず、改めて御家人という存在を確認してみたいと思います。

 

 

 

 

御家人とは、鎌倉幕府の首長である鎌倉将軍鎌倉殿(かまくらどの)と呼ばれる}と主従関係を結んだ武士のことです。

 

 

 

 

平安時代から、上級貴族や軍事貴族(平氏や源氏)に臣従する従者を家人と呼び、ときには「主人に敬意を表して」、御家人と呼ばれるようになります。

 

 

 

 

鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿家人御家人鎌倉殿御家人関東御家人などと呼ぶようになり、のち身分呼称として定着していくのです。

 

 

 

 

鎌倉殿と主従関係を持たない武士は非御家人と呼ばれ、御家人と厳密に区別されていました。

 

 

 

 

ではこれら御家人は、鎌倉殿と主従関係を結ぶ以前はどのような身分・階層の人たちだったのでしょうか❓

 

 

 

 

彼らは、地方豪族のなかで所領の開発によってその地の領主に成長した「開発領主」と呼ばれた人々でした。

 

 

 

 

開発領主は高度な農業技術を持ち、自分の配下の農民などを使用しながら荒廃地の開発を進め、これら開発地は開発領主私領となりました。

 

 

 

 

開発領主私領は「本領」と呼ばれ、この「本領」の安堵(あんど:主君が家臣の土地支配を承認すること)を求めて開発領主鎌倉殿と主従関係を結ぶのです。

 

 

 

 

鎌倉殿御家人(=開発領主)は、『御恩』と『奉公』の関係で結ばれています。

 

 

 

 

御恩』とは、御家人である開発領主の「本領」を安堵することであり、さらには戦功をあげることで新たな土地を与える「新恩給与」のことです。

 

 

 

 

戦功に対して「新しい恩(=新しい土地)」が鎌倉殿から与えられるのです。

 

 

 

 

こうした鎌倉殿からの「御恩」に対して、御家人は「奉公」を果たさなければなりません。

 

 

 

 

この「奉公」が軍役(ぐんえき:戦争に参加すること)です。

 

 

 

 

では戦争がない場合、御家人はこの「奉公」をどのような形で果たすのでしょうか❓

 

 

 

 

戦争に参加するという形ではない「奉公」の形…

 

 

 

 

これが『番役』です。

 

 

 

 

京都の内裏や上皇が居住する院御所にある緒門の警備にあたる役で、京都大番役(きょうとおおばんやく)と呼ばれました。

 

 

 

 

京都大番役は、鎌倉幕府京都警護のために設置した京都守護によって統轄(とうかつ)されていました。

 

 

 

 

承久の乱後、京都守護にかわって六波羅探題(ろくはらたんだい)が設置されます。

 

 

 

 

番役には、京都大番役の他に鎌倉の将軍御所の諸門を御家人が警備する鎌倉番役と呼ばれるものもありました。

 

 

 

 

 

 

 

つまり

 

 

 

 

 

 

 

承久の乱後鳥羽上皇方についた鎌倉御家人は、京都大番役のために上京していたわけです。

 

 

 

 

京都大番役を務める御家人(=大番衆と呼ばれる)は、相対的に独立性が強かったと言われています。

 

 

 

 

ここで考えておきたいことがあります😊

 

 

 

 

私は授業で質問を生徒に投げかけるのですが、御家人鎌倉殿と主従関係を結ぶことでその身分・地位が保障されている存在です。

 

 

 

 

そのような存在である御家人が、鎌倉殿を裏切る形で後鳥羽上皇方の味方につくのはなぜか、ということです。

 

 

 

 

授業では、在京する御家人の立場になって生徒に考えさせています。

 

 

 

 

やはり鎌倉を遠く離れ、京都にいるということが大きいのだと思われます。

 

 

 

 

承久の乱が発生した当時、源頼朝頼家実朝源氏3代の将軍がこの世を去り、源氏と外戚関係にあった北条氏執権政治を確立しつつあった時代です。

 

 

 

 

北条氏に対する不満・批判を持つ御家人が、倒幕に強い意志を示す後鳥羽上皇の熱気があふれる京都へやってくるのです。

 

 

 

 

倒幕戦争に協力した場合の恩賞の提示も、後鳥羽上皇方からあったはずです。

 

 

 

 

こうした状況に強い危機感を抱いた人物が、初代鎌倉殿であった源頼朝の妻北条政子でした。

 

 

 

 

北条政子御家人たちに源頼朝からいただいたを思いだせ!との演説を行います。

 

 

 

 

源頼朝からの御恩を持ち出すことで、鎌倉御家人を見事にまとめ上げたのです。

 

 

 

 

しかし、鎌倉幕府を裏切る御家人が数多くいたことも事実でした。

 

 

 

 

開発領主であった御家人は、忠誠心だけで主君とつながっていたのではありません。

 

 

 

 

恩賞」という実に現実的な報酬の目的のために、主人となるべき人を冷静に見定めていたのです。

 

 

 

 

鎌倉を離れ、倒幕の熱気うずまく京都にいた御家人は、北条氏に対する対抗心や後鳥羽上皇からの恩賞を期待するなどした結果、鎌倉殿を裏切るのです。

 

 

 

 

この決断は決して簡単なものではなかったと想像されますが、みなさんはどう考えますか

 

 

 

 

授業は深めていくことが大切です。

 

 

 

 

授業はまさに探求です😊