古代の都には官営(=国営)の市が設置され、平城京・恭仁(くに)京・長岡京・平安京では、左京に東市、右京に西市が置かれていました。
上図は平城京の様子ですが、日本で最初の都である藤原京にも東市・西市という2カ所の市が開設されていたのかはわかっていませんが、少なくとも1カ所は市が存在していたのだと言われています。
このように古代の都には必ず官営の市が開設されていたのですが、この市は市司(いちのつかさ)と呼ばれた国家機関によって監督されていたのです❢
ある大学の入試問題で、なぜ京内に官営の市が設置され、そしてその市はどうして国家によって監督されたのかを問う出題がありました。
今回は、市についての歴史を深めてみたいと思います😊
市という場所は、物と物を交換する場所です。
では一体、どのような「物」が交換されるのでしょうか❓
この「物」の中心となったのが、各地から納められた税になります。
古代において、口分田の班給を受けた農民たちにはさまざま税負担がありましたが、国家の中央である都に運ばれてきた物には、大きくわけて2つあることを授業で教わったはずです😊
それが「庸(よう)」と「調(ちょう)」です。
「庸」は、地方から都までやって来て政府の命じる労役{=労働のことで歳役(さいえき)と呼ばれる}の代納物として、布(麻布)・綿・米・塩などを納めるもので、運脚(うんきゃく)によって都まで運ばれました。
「調」は、もとは地方の服属儀礼としての貢(みつぎ)を起源としているとされ、繊維製品をはじめ、染料や塩・紙・食料品など、それぞれの国の特産物が徴収され、納税者のうちから運脚の人夫が選ばれ、都まで運ばれました。
運脚とは、物資を担い、徒歩で輸送に従事した人夫のことです。
都へ貢進される物資に応じて、運脚への食料の支給形態が異なっていたようで、食料のみが支給される場合、運賃のみが支給される場合、食料と運賃の両方が支給される場合などさまざまであったようです。
運脚によって都に集められた各地の物資は、〇〇省といった役所の経費として使用されたり、位禄(いろく:役人に対する給与)や季禄(きろく:2月と8月の2度与えられる給与。私は授業でボーナス💸だと説明しています)などの官人(=役人)の給与として支給されることになるのです。
都にある中央の役所に勤務する官人に対する給与は、主として布などの繊維製品でした。
ということは、繊維製品のみで日々の生活を送ることは不可能ですので、どうしても繊維製品を持って市に行き、生活必需品と交換することが不可欠になります。
こうした状況は、役所についても同様でした。
例えば役所が業務上必要とする紙や墨・米などは、市で役所に支給された布などの繊維製品と交換されたわけです。
ここまで見てくると、市が官営であって、国家によって管理されていた理由が理解できるのではないかと思います😊
つまり❢
市は国家が必要とする物資を獲得するために開かれた、ということなのです。
ですから当然ですが市は国家によって運営され、国家によって管理されていました。
そして何と言っても取引価格が重要でした。
国家が必要とする物資が高値で取引されてしまえば、国家財政を著しく圧迫することになります😓
取引価格は、高すぎず安すぎず、適正価格で取引されることが重要でした。
市を管轄する市司の役割は重要でした。
器物の真偽を確かめ、物品売買の公定価格や交換比率を適正なものにする必要があったのです。
このように見てくるとわかりますが、今も昔もそれほど変わらないという感じがしますね😅
天武天皇の時代には「富本銭」が、平城京遷都直前には「和同開珎」が鋳造され、それぞれ藤原京・平城京の造営に雇われた人々へ支給される宮都造営費用の支払いに利用されました。
しかし貨幣に対する価値がまだ高いとは言えない時代においては、布などの物品そのものに高い価値を見出すことになりますので、物々交換が行われることになります。
時代がもう少し経ちますと、商品の増大によって、あらゆるものと代替可能である貨幣の価値が高く認識されるようになり、貨幣経済の世になっていきます。
歴史を深めると、実にさまざまな事柄が見えてきます。
人々はどこに、そして何に価値を見出そうとするのか…。
過去を学ぶことを通して、未来を創造していくことのできる生徒を育てていきたいと思います😊