卒業式🌸シーズンを迎えた今回は、現在の岩手県盛岡市に生まれ、緻密(ちみつ)な情報収集、抜群の指導力によって明治末期から大正前半期の政界をリードし、ついに政党内閣を誕生させた原敬の教育政策🏫について考えてみたいと思います😊
私は普段、高等学校で高校生に対する指導を行っていますが、この高等学校は戦前・戦後それぞれに存在している学校です。
現在の高等学校は、1947(昭和22)年の学校教育法の公布によって設置された、新制度下の高等学校(新制高等学校と呼ばれる)です。
この新制高等学校に対して、戦前の高等学校は旧制高等学校と呼ばれます。
ある難関国公立大学の入試問題で、「原敬が政党政治を安定させるために採用した政策を、1919(大正8)年に、新潟・松本(長野県)・山口・松山(愛媛県)、1920(大正9)年に、水戸(茨城県)・山形・佐賀・弘前(青森県)・松江(島根県)に高等学校が設置されたことを念頭に置きながら答えなさい。」
という出題がありました😊
東京が日本の首都であることを考えると、現在の大学につながる教育機関であった高等学校の設置場所が、東京からかなり離れた地方にあるという気がします。
ここでまず、旧制高等学校についての歴史を深めてみたいと思います。
旧制度下の高等学校は、1894(明治27)年の高等学校令により発足しました。
戦前の高等学校は、帝国大学進学を目指す中学校(旧制中学校)卒業者を対象とした予備教育機関として設立されたのです。
当初は、第1高等学校(東京:現在の東京大学)、第2高等学校(仙台:現在の東北大学)、第3高等学校(京都:現在の京都大学)、第4高等学校(金沢:現在の金沢大学)、第5高等学校(熊本:現在の熊本大学)の5校で発足します。
そしてのちに、第6高等学校(岡山:現在の岡山大学)、第7高等学校(鹿児島:現在の鹿児島大学)、第8高等学校(名古屋:現在の名古屋大学)の3校が加わって、官立(国立のこと)のナンバースクール🏫が誕生します。
戦前期のエリート養成に中核的な役割を果たした帝国大学の登竜門として、激しい受験競争が展開されていきます😓
そして高等学校に合格・入学することができたならば、原則として帝国大学への「自動的な」進学が保障されていたこともあって、入学者には3年間の自由な学習の場が与えられたのです😊
1918(大正7)年に高等学校令が改正され、民間における教育熱の高まりを受けて、公立・私立の高等学校の設立が認められることになります。
この1918(大正7)年には「大学令」も制定され、総合大学である帝国大学のほかに単科大学や公立・私立の大学の設置が認められました。
「大学令」が制定されるまでの大学は、帝国大学のみでした。
帝国大学以外の国立・公立・私立の大学の設置は、一切認められてはいませんでした。
「大学令」の制定により多くの大学が国内に誕生し、大学生の数は1918(大正7)年の約9000人から、1930(昭和5)年には約7万人に増加したのです😲
大学を卒業した人々は、会社員・銀行員・公務員などの俸給生活者(サラリーマン)として、いわゆる新中間層と呼ばれる階層を形成することになります。
話が少しそれましたが改めて、なぜ原敬は地方に高等学校を設置したのでしょうか❓
大学入試の問題文にもあります「政党政治を安定させるため」というところが、大きなヒントになるはずです。
原敬は「衆議院に議席を持つ初めての総理大臣」として有名です。
衆議院に議席を持つということは、選挙による投票で当選したということです。
当時の原敬は、伊藤博文が創設した立憲政友会の総裁として内閣を率いていたのですが、政権与党の立場を守り続けるには、選挙で勝たなければなりません。
どのような政策を公約として掲げ、実現していけば選挙で票を獲得することができるのか。
そういった中で考え出された政策の1つが、高等学校の増設だったのです。
当時、第1高等学校などに代表される官立のナンバースクールは、学生の憧れでした。
高等学校が設置されていない地方の学生や親は、原敬の政策を大いに歓迎したはずです。
選挙権を保有していた地方の学生の親は、原敬が公約している政策を実現させるべく、立憲政友会から立候補した人物に投票するのです❢
そして原敬は選挙制度を変更し、小選挙区制を導入します。
各選挙区における当選人数が1人に限定されるシステムが小選挙区制です。
原敬は選挙で勝利する自信があったということです。
小選挙区制の導入や、地方に高等学校を設置するという政策公約は見事に功を奏します。
「有権者からの票の獲得が見込める政策を掲げる」
これが政治の世界では重要なポイントになってくるのです。
政治に対する考え方は人それぞれですが、私は政治の果たす役割は重要であると考えています。
みなさんはいかがでしょうか❓