前回の続きになります。

 

 

 

 

サンフランシスコ平和条約の「批准(ひじゅん)」をめぐる日本社会党内部における対立についてでした。

 

 

 

 

第二次世界大戦は、日本が1945(昭和29)年8月に降伏したことによって終結しましたが、国際法における戦争状態はその後も続いていました😲

 

 

 

 

サンフランシスコ平和(講和)条約とは、この戦争状態を終了させるために1951(昭和26)年9月8日に調印されたもので、翌1952(昭和27)年4月28日に条約が発効したことで、約7年間に及んだ連合軍(実質的にはアメリカ軍)による日本占領が終了しました。

 

 

 

 

この講和会議は、アメリカサンフランシスコ市にあるオペラハウスで、開催されました😊

 

 

 

 

この講和問題をめぐり、日本社会党は「右派」と「左派」とに分裂するのです❢❢

 

 

 

 

右派」は、講和条約には賛成であるが、安全保障条約には反対の立場をとります。

 

 

 

 

これに対して「左派」は、講和条約・安全保障条約ともに反対の立場をとるのです。

 

 

 

 

こうして日本社会党は、「右派」と「左派」とに分裂してしまうのですが、この両派が統一を実現する時がきます。

 

 

 

 

 

少し難易度が上がってしまいますが、みなさんは1954(昭和29)年に起こった「造船疑獄(ぞうせんぎごく)事件」を知っていますか❓

 

 

 

 

第二次世界大戦で徴用された商業船の撃沈や、海軍が消滅したことにより戦争に使用する船数が激減したことで、日本の海運業界は大きな打撃を受けました。

 

 

 

 

こうした状況を受け、日本の海運業界を活性化させるため、計画造船による商業船の確保と、海運業者の借入金の金利負担を軽減するための法案審議をめぐり、贈収賄(ぞうしゅうわい)事件が発生するのです😲

 

 

 

 

東京地検特捜部は、造船会社ならびに海運会社(貨物輸送にあたる会社)の幹部や政府・与党の政治家など74名を逮捕します。

 

 

 

 

贈収賄容疑は当時の自由党幹事長で、のち首相に就任する佐藤栄作にまで及びますが、当時の法務大臣犬養健(いぬかい たける:犬養毅元首相の次男)の指揮権(しきけん)発動で挫折し、事件の核心には迫れませんでした😓

 

 

 

 

法務大臣は個々の事件の取り調べ、処分については検事総長のみを指揮することができることになっており、犬養健法務大臣はこの指揮権を発動することで、佐藤栄作幹事長への捜査を止めたのです。

 

 

 

 

この造船疑獄事件で当時の吉田茂内閣への批判が強まる中、鳩山一郎自由党反吉田派は離党して、鳩山一郎を総裁とする「日本民主党」を結成します。

 

 

 

 

この後、吉田茂内閣は総辞職するのですが、次の首相選定にあたり日本社会党が大きな力を見せることになります。

 

 

 

 

日本社会党は両派とも日本民主党鳩山一郎総裁を支持し、これによって政権交代が実現することになりました。

 

 

 

 

青山学院大学准教授の小宮京先生の寄稿を読むと、両派社会党鳩山一郎に突きつけた条件は早期解散だったと書かれています

 

 

 

 

つまり、解散総選挙での議席増に大きな自信を持っていたということなのです😲

 

 

 

 

そして両派は1955(昭和30)年2月の総選挙後の10月に統一し、単独で政権を獲得する意欲をみせたのです。

 

 

 

 

これに驚いたのが、いわゆる保守の二党です。

 

 

 

 

保守」と「革新」という用語は、きちんと理解しておく必要があります。

 

 

 

 

保守」勢力は、憲法改正(改憲)とアメリカ依存の安全保障の立場に立っています。

 

 

 

 

これに対して「革新」勢力は、憲法擁護(護憲)と非武装中立の立場に立っています。

 

 

 

 

革新勢力である日本社会党は、「右派」と「左派」が合同して政権獲得を目指します。

 

 

 

 

この日本社会党の脅威に対抗するため、保守二党(自由党日本民主党)が合同して自由民主党1955(昭和30)年11月に誕生したのです。

 

 

 

 

日本社会党衆議院における3分の1の議席確保を重視した理由は、保守勢力による日本国憲法の改正を阻止するため、との解答になるわけですが、日本社会党3分の1の議席にこだわっていたわけでは決してありませんでした。

 

 

 

 

 

日本国憲法第96条を読むと、憲法の改正は、各議院(衆議院・参議院)の総議員の3分の2以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案することになっています。

 

 

 

 

護憲を訴える革新勢力からすれば、憲法改正を阻止するためには何としても3分の1の議席確保を重視せざるを得ませんでした。

 

 

 

 

しかし日本社会党の「右派」と「左派」が合同したのは、衆議院において憲法改正の発議を阻止するためだけでは決してなく、政権を獲得しようとする意欲からでした。

 

 

 

 

1955(昭和)年における、革新勢力・保守勢力それぞれの合同によって、保守勢力が議席の3分の2弱を、革新勢力が3分の1を維持しつづける時代が続くことになります。

 

 

 

 

これが55年体制です。

 

 

 

 

自由民主党日本社会党による二大政党の対立は、1993(平成5)年日本新党細川護熙(ほそかわ もりひろ)政権の誕生によって崩壊するまでの38年もの長きにわたって続くことになったのです。

 

 

 

 

 

歴史は深く、そして多角的に分析することが大切です。

 

 

 

 

教科書という紙面に書かれた一見無味乾燥とも思える歴史の記述が、深い分析によって豊かに、そして色鮮やかに私たちの前にあらわれてくるのだろうと思います😊

 

 

 

 

みなさんも是非、歴史を深く考えてみませんか