前回の続きになります。

 

 

 

 

日本の産業革命を支えた功労者とも言える女性たちが従事していた繊維産業の勤務形態ならびに賃金💸についてでした。

 

 

 

 

紡績工場の女子労働者(女工と呼ぶ)は、昼夜2交代制12時間労働で休日はおおむね隔週1回、賃金は日給7~25銭が標準であったといいます。

 

 

 

 

女子労働者の多くは寄宿舎に住んでいましたが、肺結核などにより健康を損なうことも少なくありませんでした。

 

 

 

 

大企業に多かった紡績女工に比べ、中小企業に多かった製糸女工の場合は、その労働条件はいっそう過酷で、1日16~17時間労働もまれではなかったとされています😨

 

 

 

 

また12歳未満年少労働者の数も多く、渋沢栄一によって設立された大阪紡績会社では10%余りを占めていました。

 

 

 

 

このような過酷な状況に対して、工場労働者はひたすら沈黙を貫いたのでしょうか

 

 

 

 

 

 

みなさんは、雨宮(あめみや)製糸争議を知っていますか❓

 

 

 

 

1886(明治19)年6月山梨県甲府の製糸工場で起こった女工争議です。

 

 

 

 

経営者側による過酷な労働条件に反発した雨宮製糸工場の女工100名余りが自然発生的に職場を放棄、近くの寺院に立てこもった事件です。

 

 

 

 

日本最初の工場労働者によるストライキとして注目されている女工争議なのです。

 

 

 

 

難関大学の入試問題に出題されるレベルになります。

 

 

 

 

 

1894(明治27)年に勃発した日清戦争後、労働者の階級的自覚が高まり、劣悪な労働条件を改善するために団結するようになっていきます。

 

 

 

 

これに対して明治政府は、1900(明治33)年治安警察法を公布して労働運動を厳しく取り締まるのですが、その一方で、生産能率の向上と資本家・労働者の階級対立の緩和のため、労働条件を改善する必要があるという社会政策の立場から、労働者を保護する法律を制定しようとする動きが起こり、「工場法」の制定に向かうことになるのです。

 

 

 

 

工場法の内容はこうです。

 

 

 

 

少年・女子の就業時間の限度を12時間とし、その深夜業を禁止

 

 

 

 

工場法適用の範囲は、15人以上を使用する工場に限定

 

 

 

 

内容は上記の通りですが、繊維産業界は政界と結びつき様々な例外を作っていくのです。

 

 

 

 

深夜業禁止を施行後15年間猶予(ゆうよ)し、製糸業界に限って12時間労働の2時間延長を15年間限りで認めます

 

 

 

 

②にみたように、工場法が適用された工場は15人以上を使用する工場とされたのですが、原案では10人以上だったのです。

 

 

 

 

これによって多くの製糸工場が工場法の適用外となってしまいました。

 

 

 

 

製糸業は小規模経営だったことがわかります。

 

 

 

 

 

 

どうして、政界・繊維産業界はここまで過酷な労働条件を労働者に突き付けなければならないのでしょうか

 

 

 

 

そこには大きな理由があるのです。

 

 

 

 

 

 

繊維産業産業革命の中心でした。

 

 

 

 

綿糸を生産する紡績業を発展させるためには、当然ながら原料の綿花や紡績機械を海外から輸入するより他ありません。

 

 

 

 

輸入するには、支払いに必要不可欠な外貨の獲得が重要な懸案事項となります。

 

 

 

 

同じ繊維産業にあって、紡績業に比べ生糸を製造する製糸業の方が労働条件的にも過酷だった理由がここにあります。

 

 

 

 

 

 

つまり❢❢

 

 

 

 

 

 

国産の繭を原料とする生糸を輸出することで外貨を獲得する製糸業の役割がとても重要だったからです。

 

 

 

 

製糸業に従事する女工の「労働条件改善や賃金引上げ」を行った場合、どのような結果につながるだろうと支配者側には予想されたのでしょうか。

 

 

 

 

長時間労働と低賃金構造が、日本の外貨獲得に大きく貢献してきたのです。

 

 

 

 

労働時間を短縮し、賃金を上げるということは、簡潔に言えば利益が減ることになるわけです。

 

 

 

 

ですから日本最初の労働者保護法である「工場法」は、完全な形での労働者寄りの法律にはなり得なかったのです。

 

 

 

 

多くの品目を海外からの輸入に頼っていた日本は、日本の産業を発展させることで外貨を獲得する必要性に迫られていました。

 

 

 

 

労働者を保護する重要性を強く認識しながらも、当時の明治国家が抱えた現実や経営者側の利益を優先させた法律にならざるを得なかったわけです。

 

 

 

 

制定から実施まで5年間ずれ込んだ上に、きわめて不備な内容だった理由はこの点にあったわけです。

 

 

 

 

国家の利益」の前に「個人の利益」はあまりに小さく無力で、いとも簡単に切り捨てられてしまうものなのだなと痛感させられます。

 

 

 

 

みなさんは、どのように感じますか❓