前回の続きになります。
足尾銅山鉱毒問題に対する政府の決定についてでした。
田中正造らが要求したのは、足尾銅山の経営を担っていた古河による「鉱業停止」でした。
それにもかかわらず政府の決定は、古河側への鉱毒予防工事命令だったのです😲
なぜ政府は、古河側に対して「鉱業停止」を命令しなかったのでしょうか❓
近代国家としての日本は、1894(明治27)年に勃発した日清戦争を最初として、その後ほぼ10年毎に大きな戦争に深く関わっていくことになります。
戦争するためには軍備の拡張が必要不可欠であり、そのための重工業部門の発展が重要でした。
日本の重工業部門は欧米列強に比べ著しく遅れており、材料となる鉄鋼も輸入に頼っている状況でした。
陸軍・海軍などの軍部では、軍艦・武器の国産化が課題となり、この課題を克服すべく官営(=国営のこと)八幡製鉄所が設立され、重工業の基礎となる鉄鋼の国産化が目指されたのでした。
突然ですが、みなさんは「糸ひき唄(うた)」と呼ばれる歌を知っていますか❓
これは蚕(かいこ)の繭(まゆ)から糸を取る作業の時に歌う歌なのですが、この「糸ひき唄」の中で有名な歌があります。
「男は軍人 女は工女 糸をひくのも国のため」
男が軍人として戦争に行くのは国のためである、というのはわかります。
ではなぜ、女が工女として糸をひくのが国のためになるのでしょうか❓
この工女たちは、製糸業に従事している労働者です。
製糸業は国産の繭を原料としており、この繭から取れる生糸は日本を代表する輸出品でした。
日本は綿糸も海外に輸出していましたが、原料の綿花は中国・インド・アメリカなどからの輸入に依存していたため、綿業貿易はむしろ赤字となっていました。
しかし生糸は違います。
原料は100%国産であるために、莫大な利益をあげることのできる産業として外貨の獲得に大きく貢献したのです。
「原料が国産である」ということが、莫大な外貨を稼ぐ際の重要なポイントとなっていました。
ここまでお話をすると、なぜ明治国家が足尾銅山の操業を停止させなかったのかが見えてくると思います。
つまり!
銅山から産出される銅は、生糸同様に外貨を獲得する重要な輸出品だったのです。
日本の国防に深く関係する軍事工場と鉄道を除く官営事業は、1884(明治17)年頃から次々と民間に払い下げられていきました。
江戸時代には幕府・諸藩の直轄であった鉱山を、明治政府が引き継いで官営事業としてきました。
三井・三菱(岩崎)・古河などの政商(せいしょう)は、優良鉱山の払い下げを受け、巻き上げ機の導入など機械化を進めて、石炭や銅の輸出を増やしていったのです。
政商とは、明治政府の保護下に活躍した特権的商人たちです。
これら政商は鉱工業に基盤を持ち、のちに財閥に成長していくのです。
先ほど見たように、銅は日本の優秀な輸出品でした。
軍需品購入のために外貨を獲得したい明治国家が、鉱毒問題のために足尾銅山の経営を担っている古河の銅山操業を停止する処分を下すことなど到底できませんでした。
ですから鉱毒問題を治水問題にすり替えることで、事態の収拾をはかったのです。
渡良瀬川流域の被害民を助けることはとても重要なことです。
しかし、国益を考えたときに明治政府が出した答えは、足尾銅山の操業継続でした。
政府は積極的に政商を保護することで、日本の国力を増強していきました。
銅を輸出して外貨を獲得し、その獲得した外貨で戦争に必要な軍需物資を購入する。
このような国家の方針のもとで、田中正造らの悲痛な訴えは退けられていったのです。
その後足尾銅山は、第1次世界大戦時に最盛期を迎えることになります。
足尾銅山の閉山は、1973(昭和48)年。
現在は観光地になっています。
歴史はとても深い学問です。
国家・企業・民衆など、さまざまな立場を分析することで、よりよい未来を創造することに寄与できる学問だと思います。
是非みなさんも、歴史を深めてみませんか😊❓