前回の続きになります😊
摂関政治が行われた平安時代中期の「結婚のあり方」について、高等学校で使用されている日本史の教科書には、次のように記述されています。
「当時の貴族社会では、結婚した男女は妻側の両親と同居するか、新居を構えて住むのが一般的であった。夫は妻の父の庇護(ひご)を受け、また子は母方の手で養育されるなど、母方の縁が非常に重く考えられていた。摂政・関白は、天皇のもっとも身近な外戚として、伝統的な天皇の高い権威を利用し、大きな権力を握ったのである。」
当時は、女性宅に男性が婿(むこ)に入る招婿婚(しょうせいこん)が一般化していました。
ですから摂関政治の時代において、貴族たちの最大の関心事は、「誰が天皇を婿に迎えるか」ということだったわけです。
しかし、天皇を婿に取るだけでは不十分でした😓
確かに天皇を婿に取ることで天皇家と姻戚関係を結ぶことにはなりますが、天皇との間に子供が誕生しなければ、天皇家との姻戚関係はあっという間に消滅してしまうからです。
藤原氏北家は当時の「結婚のあり方」を最大限に利用することで、天皇家と外戚(がいせき:母方の親戚)関係を構築することに成功しました。
藤原氏の娘たちは、父親の思惑通り天皇の后(きさき)となり、待望の男児👨を産みました。
子供が産まれなかったり、あるいは産まれた子が全員女児👩であった場合は、藤原氏の外戚の地位が危ぶまれることになります😨
ところで、日本の女帝(女性の天皇)は、歴史上8人10代しかいません。
このうち、奈良時代までの女帝は6人8代で、あとは江戸時代に2人いるだけです。
ですから原則女性では、天皇に即位する可能性が薄いわけです。
しかし、男児👨・女児👩のどちらが産まれるかは、産まれてみるまではわかりません。
藤原氏は他氏排斥を着実に実施しながらも、男性の天皇と結婚させるために娘👩を持つ必要がありましたし、天皇の后となった自らの娘に男児👨を産んでもらわなければならないなど、外戚の地位を維持し続けるには、実に様々な条件があったのです😲
藤原氏はこれらの諸条件を見事に満たしてきた❢❢❢
ということになるのです。
藤原実頼(ふじわらのさねより)という人物がいます。
摂政・関白を経験した藤原忠平の長子で、この人物もまた摂政・関白を経験した上級貴族でした。
しかし、藤原実頼は天皇を婿に迎えることができなかったため、天皇家との外戚関係を構築できず、朝廷の貴族から軽視されていくことになります😓
ですから藤原氏の娘を天皇の后とし、夫婦の間に産まれた子が男児👨で、この男児👨を天皇として即位させ、天皇の祖父【母方の祖父にあたるので、外祖父という】という立場になって初めて大きな権力を掌握することができたのです。
「天皇の外戚」かつ摂政・関白、この条件がそろってこそ朝廷内で絶大なる権力を行使できたというわけです。
ところで、藤原道長が摂政に就任した期間が「たったの1年間」だったという事実を知っていますか❓
藤原道長の娘彰子(しょうし)と一条天皇の間に誕生した後一条天皇の摂政を1年間だけ担当して辞職しています。
この事実は何を意味しているのでしょうか❓
藤原道長の4人の娘たちは、それぞれ天皇の皇后(こうごう:天皇の正妻のこと)や皇太子妃となり、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇3代の天皇は藤原道長の外孫でした。
藤原道長の子頼通(よりみち)は、上記3代の天皇の摂政・関白を務めていました。
つまり藤原道長は、天皇家との外戚の地位を確立させていたのです。
藤原頼通の娘寛子(かんし)は、後冷泉天皇の后となっていましたが、皇子が誕生することはありませんでした😓
そして摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位し、後三条天皇の子の白河天皇は上皇として院政をひらくことになります。
上皇の出現は、藤原摂関家の地位を相対的に低下させるものではありましたが、摂関家が衰えることはなく、摂政・関白を輩出する家として君臨し続けていました。
「天皇との外戚関係」
天皇家との血縁が何よりも重視された時代が、少しずつ移り変わっていくことになります。
どういうことでしょうか❓
藤原道長が摂政に就任した期間がなぜ「たったの1年間」だったのか、という謎もあわせて、この続きは次回にしたいと思います😊