前回の続きになります。

 

 

 

 

前回の記事にも出てきましたが、みなさんは高杉晋作という武士を知っていますか❓

 

 

 

 

高杉晋作は、長州藩の学校(藩校)である明倫館(めいりんかん)に学びましたが飽き足らず、吉田松陰松下村塾に入門します。

 

 

 

 

久坂玄瑞(くさか げんずい:吉田松陰の妹と結婚)とともに松下村塾の双璧とされ、吉田松陰高杉晋作の見識を高く評価しています。

 

 

 

 

1862(文久2)年上海に行き、西洋列強によって半ば植民地にされている中国の実情を見て、対外防備の必要性を強く認識します。

 

 

 

 

1863(文久3)年奇兵隊を結成して、長州征討の結果保守派に握られた藩政を奪い返すのです😲

 

 

 

 

藩論を一変させた長州藩に対して、幕府は長州藩を再び征伐することを決意します。

 

 

 

 

第14代将軍徳川家茂(いえもち)は江戸城🏯を出発して大坂城🏯に入ります。

 

 

 

 

そして幕府は再び長州征討第2次)の勅許を朝廷より得るのです。

 

 

 

 

幕府は朝廷からの勅許を得たことで、諸藩に出兵を命じますが、第1次とは異なり薩摩藩は幕府の出兵命令を拒否しました。

 

 

 

 

薩摩藩長州藩イギリス貿易商人のグラバーから武器を購入するのを仲介するなど、ひそかに長州藩を支持する姿勢を示したのです。

 

 

 

 

 

グラバーは、スコットランド出身の商人でした。

 

 

 

 

1859(安政6)年上海より開港まもない長崎に移り、グラバー商会を設立して貿易業を営みます。

 

 

 

 

のち薩摩藩長州藩のみならず幕府などに武器・弾薬、軍艦🚢を売って巨利を得ます。

 

 

 

 

グラバーは日本人女性を妻に迎え、グラバーをもじった「倉場(くらば)」という日本姓を名乗っていました。

 

 

 

 

現在、グラバーの邸宅があった場所はグラバー園として一般に公開され、観光名所になっています。

 

 

 

 

 

 

<長崎市にあるグラバー園>

 

 

 

 

 

 

 

長州征討第2次)で幕府軍は苦戦を強いられます。

 

 

 

 

幕府軍の兵士たちは日本古来の刀や弓矢で武装しているのに対して、長州軍は輸入された当時最新鋭の武器を持っていたからです。

 

 

 

 

下関長州軍を壊滅させた外国製の武器を、今度は長州軍が持ち、この武器を幕府軍に向けたのです。

 

 

 

 

1866(慶応2)年第14代将軍徳川家茂大坂城🏯で死去し、幕府は喪を発すると同時に一橋慶喜の徳川宗家相続を布告し、長州征討第2次)の休戦に踏み切ります。

 

 

 

 

こうして幕府は長州藩との戦争に敗北し、その権威を失墜させていったのです。

 

 

 

 

長州藩が幕府との戦争に勝利した要因の1つに、薩摩藩の支えがあったことは確かです。

 

 

 

 

なぜ薩摩藩は、長州征討のため出兵せよ、と命じた幕府を拒絶したのでしょうか

 

 

 

 

それには歴史的にも重要な「ある密約」が深く関係しているのです。

 

 

 

 

 

 

薩長同盟です。

 

 

 

 

薩長同盟長州征討第2次)に対して結ばれた、薩摩藩長州藩の同盟です。

 

 

 

 

禁門の変で朝敵とされた長州藩は、長州征討第1次)で幕府に恭順・謝罪し、その後幕府の厳しい監視下に置かれました。

 

 

 

 

外国からの公然たる武器の購入が禁止された長州藩は、薩摩藩名義で武器を購入しようとし、土佐藩出身の坂本龍馬中岡慎太郎のあっせんで武器購入が実現するのです。

 

 

 

 

1866(慶応2)年1月木戸孝允が上京し、京都薩摩藩邸に入ります。

 

 

 

 

木戸孝允小松帯刀(たてわき)・西郷隆盛と会談し、坂本龍馬の立ちあいのもと同盟が結ばれました。

 

 

 

 

薩長同盟6か条は、幕府と長州藩が開戦した場合、あるいは開戦しなかった場合など、様々な可能性を想定して、薩摩藩軍事的支援および朝廷へのあっせんの支援が取り決められたものになっています。

 

 

 

 

この同盟に従って薩摩藩は、長州征討第2次)の出兵を拒否したのです。

 

 

 

 

今まで概観してきたように、薩摩藩公武合体の立場から一橋慶喜第14代将軍徳川家茂後見職に推挙することで、一橋慶喜を政治の表舞台に引き上げました。

 

 

 

 

しかし薩英戦争を経験することで、薩摩藩イギリスとの関係を深め、開国の必要性を強く認識することになります。

 

 

 

 

長州藩薩摩藩同様に外国との戦争を経験することで、開国の必要性を強く認識し、幕府のいいなりにはならないとの決意を固めます。

 

 

 

 

この両者の考えがついに1つになり、薩長同盟へと発展していくのですが、実はこの同盟は2藩が西日本市場をおさえて大坂を支配することで、幕府の全国市場支配に対決しようとする考え方が、その延長線上にあったといいます。

 

 

 

 

幕府による政治・経済の独占を排除するため、薩摩藩長州藩と提携し、第15代将軍となった徳川慶喜と敵対することになったのです。

 

 

 

 

この両者の対立の背景には、を支援したイギリスと幕府を支援したフランスの「貿易をめぐる対立」がありました。

 

 

 

 

近代の欧米国家は、貿易による利益をあげるために世界各国へ進出していったのです。

 

 

 

 

幕府・イギリスフランスがそれぞれの思惑を抱えながら、それぞれを利用する形で自らが思い描く未来を模索していたのです。

 

 

 

 

国益とは一体何か。

 

 

 

 

幕末の薩摩藩徳川慶喜の動きを概観しながら、国益とは一体何なのだろうか❓とふと考えてしまいました。

 

 

 

 

みなさんは、どのように思いますか😊