前回の続きになります。
北条義時と和田義盛の関係についてでした。
この両者の対立をみていく上で、「泉親衡(いずみ ちかひら)の乱」がとても重要であると思われます。
鎌倉幕府内で大きな権力を有した北条義時打倒を目的とする反乱計画が発覚します。
この計画の首謀者とされるのが、信濃(現:長野県)の武士であった泉親衡です。
反乱計画の一味として逮捕された者は、信濃・下総(現:千葉県の一部・茨城県の一部)を中心に330名余りに及んだとされています😲
この反乱計画に協力したとされる人々の中に、重要人物が混ざっていました。
それが、侍所別当であった和田義盛の甥(おい)、和田胤長(たねなが)でした。
この反乱計画に加わった和田一族に対して、北条義時は厳罰の処分を下します。
義時は、和田氏の所領を奪い自らの所領とするなどして、和田義盛を徴発します。
「一所懸命(いっしょけんめい)」という言葉があるように、武士にとって所領は命そのものです。
所領を奪うなどの暴挙にでた北条義時に対し怒りをあらわにした和田義盛は、相模(現:神奈川県)・武蔵(現:埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の御家人の協力を得て、北条義時と戦いを繰り広げることになります。
和田合戦と呼ばれる戦いです。
しかし、和田義盛はこの戦いに敗れ、滅亡することになります。
この後、北条義時は政所別当のみならず、侍所別当の地位をも手に入れ、鎌倉幕府の中枢機関を掌握することになるのです。
このことから、北条義時は当初より泉親衡の事件を利用して和田義盛を徴発し、これを滅亡させることで侍所別当の地位を奪取することを計画していたと考えられているのです。
こうして、北条氏は鎌倉幕府内における有力御家人を排除することに成功したのです。
しかしこの後、侍所別当と政所別当を兼務した北条義時に、大事件が起こることになります。
1219(承久元)年、後鳥羽上皇より右大臣の官職を得た源実朝が拝賀(はいが:官職を得た者が、神仏などにその喜びと謝意を告げるために出向いて拝礼すること)のために訪れていた鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、兄である源頼家の子、公暁(くぎょう)に殺害される事件が起こったのです😲
日本史の教科書などには、「北条義時は源実朝の死後、皇族を将軍にまねく交渉をしたが、後鳥羽上皇が拒否して交渉は不調に終わった」と書かれていますが、源実朝暗殺以前の幕朝関係を歴史辞典などで調べてみると、次のように説明されています。
「鎌倉幕府では源実朝に子がないため、次期将軍に後鳥羽の皇子を迎える案をたて、北条政子が朝廷側に打診し、その内諾が得られた。」
これをみると、幕府と朝廷の関係は決して悪いものではなかったと考えられますが、実朝が殺害されることによって、幕朝関係が急速に悪化していくのです。
後鳥羽上皇は、源実朝を厚遇(こうぐう:手厚くもてなすこと)しています。
右大臣という破格の官職を与えるなど、上皇は実朝を通じて、鎌倉幕府に強い影響力を行使しようと画策していたとされています。
源実朝の暗殺に後鳥羽上皇は冷静な対処をとることができず、皇子将軍就任の幕府の要請を拒否しています。
鎌倉幕府は困惑しますが、源頼朝の遠縁にあたる九条道家(くじょう みちいえ)の子を将軍とする案が浮上し、後鳥羽上皇もこの摂家将軍案を承認しています。
摂家将軍とは、摂関家出身の将軍のことです。
しかし❢❢
後鳥羽上皇は、ほどなく摂家将軍廃止を決意しています。
その理由は、貴族間の対立・抗争の発生にあったとされています。
摂関家は、5つの家にわかれています。
近衛(このえ)家・九条家・一条家・二条家・鷹司(たかつかさ)家の5家です。
鎌倉将軍を九条家から出すことに、近衛家が反発するなど、貴族間に亀裂が生じたのです。
上皇の周囲を構成する貴族間の安定をはかるためにも、摂家将軍廃止に向けた動きを加速させた後鳥羽は、摂家将軍擁護派の中心的存在であった北条義時追討の命令を発することになります。
北条義時追討の命令には、鎌倉将軍をめぐる貴族間の対立・抗争といった複雑な事情が背景にあったのです。
鎌倉には将軍後継者として、九条道家の子、2歳の三寅(みとら)が下向していました。
そして三寅が下向した1年後の1221(承久3)年、その後の幕朝関係に重大な影響を及ぼす戦いが繰り広げられることになるのです❢❢
この続きは、次回にしたいと思います。