皆さんは、「衆議院議員選挙法」と呼ばれる選挙法を知っていますか❓
この選挙法は、1889(明治22)年2月11日に、大日本帝国憲法(通称:明治憲法)と同時に公布されました。
この選挙法では選挙人、つまり参政権を持つ人は、満25歳以上の男性で直接国税(地租と所得税、のちに営業税も加わる)15円以上の納税者に限定されていました😲
ところで地租とは、一体何でしょうか❓
江戸幕府を倒して成立した明治政府にとって、財政の安定は重要な課題でした。
明治政府の主要な財源は、旧幕府時代のまま受け継いだ年貢で、旧各藩ごとに税額が異なっていたばかりか、米の豊凶によって年々変動していました。
明治政府は年貢として納められた米を換金して、財源としています。
つまり米が多く収穫できた年は米価が下がり、米の収穫量が減少した年は米価が上がることになります。
明治政府の財源は、常に不安定であったわけです。
このため明治政府は財源の安定を目指して、土地制度・税制改革に着手することになるのです❢
この改革が「地租改正」です。
地租とは、この地租改正と呼ばれた土地制度・税制改革によって定められた、「土地に対する金納(お金で税を納める)の固定税」のことなのです。
田畑面積・収穫高・平均米価などを基礎として決定された地価と呼ばれる土地の価格の3%が地租とされました。
私は授業で生徒に、いつも次のように質問しています😊
「地租は地価の3%と定められましたが、この税負担は納税者にとって重い負担だったと思いますか❓それとも軽い負担だったと思いますか❓」
教科書をしっかり読んでいる生徒は、「重い負担です❢」と明確に答えを返してくれます😊
教科書には次のような記述があります。
「地租改正は従来の年貢による収入を減らさない方針で進められたので、農民は負担の軽減を求めて各地で地租改正反対の一揆を起こし、1877(明治10)年には地租の税率が2.5%に引き下げられた。」
ですから「地価の3%」という負担は、決して軽い負担などではなく、相当に重い負担であったわけです😓
話が少しそれてしまいましたので、話をもとに戻します。
衆議院議員選挙は著しい制限選挙であったため、選挙資格を持つ有権者は、総務省統計局の「日本の長期統計系列 第27章 公務員・選挙」を見ると、第1回選挙時45万872人で、全人口のわずか1%強しかいませんでした😲
この有権者数が前回の選挙から「大幅に増えて」行われた選挙が「2回」あります。
<1回目>
1924(大正13)年の有権者数が、328万8405人
1928(昭和3)年の有権者数が、1240万8678人
1928(昭和3)年の選挙時の有権者数は、1924(大正13)年の選挙時の有権者数の何と❢3.77倍になっています😲
ここには大きな理由が隠されています。
今回は、衆議院議員選挙時における有権者数増大の理由について、考えを深めてみたいと思います☻
衆議院議員選挙法は戦前の日本において、何度か改正が行われています。
<山県有朋(やまがた ありとも)内閣>
1900(明治33)年に改正が行われて、直接国税の制限額が15円以上から10円以上に引き下げられました。
この改正前後の選挙における有権者数を見てみると、1898(明治31)年の選挙で50万2292人、改正後の1902(明治35)年の選挙では98万2868人となっており、有権者数は1.95倍に増えています。
直接国税の制限額が「5円」引き下げられることで、有権者数が大幅に増えてはいますが、まだまだ高額納税者に限定されているのです😓
次回の改正は大正時代に実施されているのですが、どの内閣の時かわかりますか☻❓
ヒントは、岩手県で生まれ、「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれた人物が首相だった時なのですが。
この続きは次回にしたいと思います。
是非、皆さんも考えてみて下さい☻