前回の続きになります。

 

 

 

 

岸信介内閣が推し進めた、安保改定の推移についてでした。

 

 

 

 

岸信介山口県出身で、東京帝国大学(現在の東京大学法学部を卒業後、農商務省という省庁に入省します。

 

 

 

 

その後、東条英機内閣の商工大臣45歳の若さで就任するのですが、戦後、A級戦犯平和に対する罪)容疑で逮捕され、巣鴨プリズン巣鴨刑務所第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人の収容施設)に収容されます。

 

 

 

 

のちに不起訴となって釈放され、政界に復帰をはたします。

 

 

 

 

歴史辞典には、岸信介の構想は祖国の栄光の再建であり、そのために「憲法改正」・「自主防衛」・「日米対等同盟化」に邁進(まいしん)する、と記述されています。

 

 

 

 

岸信介は「憲法改正」による「再軍備」を目指しますが、「憲法改正」は著しく困難であったため、日米安全保障条約改定による日米対等化自己の政権の最大課題に設定するのです。

 

 

 

 

 

岸信介内閣は、安保改定に伴う混乱を事前に予測して、警察官の権限強化をはかる警察官職務執行法」の改正案を国会に提出しますが、革新勢力の反対運動が高まったため、廃案になっています。

 

 

 

 

警察官職務執行法とは、警察官がその職務を忠実に遂行するために必要な手段を定めた法律です。

 

 

 

 

職務質問・応急保護・天災事変・危険事態の危害防止・犯罪の予防および制止・武器の使用などの手段を定めています。

 

 

 

 

 

 

1960(昭和35)年1月岸信介ワシントンに赴(おもむ)き、「日米相互協力及び安全保障条約」に調印します。

 

 

 

 

内容は以下の4点です。

 

 

 

 

 

日米経済協力と日本の防衛力強化の協調

 

 

 

共同防衛義務

 

 

 

在日米軍の重大行動に関する事前協議制

 

 

 

条約期限は10年(その後は自動延長により継続)

 

 

 

 

 

①~④からわかる通り、アメリカの日本防衛義務が明文化され、さらにアメリカ軍の日本および極東での軍事行動に関する事前協議が定められたのでした。

 

 

 

 

こうして旧条約の不備を解消し、アメリカとより対等な条約が締結されることになったのです😊

 

 

 

 

このような「保守」を代表する岸信介の動きに対して、大規模な反対運動が起こります

 

 

 

 

 

戦前、軍国主義を推進し、戦後、A級戦犯容疑で逮捕された岸信介が、日米安全保障条約を改定させることで、再び軍国主義を復活させようとしているのではないか、日本が再び戦争に巻き込まれるのではないか、と恐れる広範な国民の安保改定反対運動を呼び起こします。

 

 

 

 

日本社会党日本共産党などに代表される革新勢力や、全学連全日本学生自治会総連合)の学生団体などは、日米安全保障条約の改定を阻止するために共同闘争組織を作り上げます。

 

 

 

 

この共同闘争組織が、安保改定阻止国民会議です。

 

 

 

 

 

しかし❢❢

 

 

 

 

 

こうした国民の声を無視する形で、1960(昭和35)年5月岸信介内閣は警察官を導入した衆議院で条約の批准を強行採決するのです😲

 

 

 

 

議会を無視した強引な批准方法に多くの批判が集まります。

 

 

 

 

この強行採決を機に反対運動が急速に盛り上がり、反安保改定・反岸信介の勢力が、巨大なデモとなって連日国会議事堂を取り巻くのです。

 

 

 

 

60年安保闘争」と呼ばれています。

 

 

 

 

この60年安保闘争の中で、悲しい出来事が起こってしまいます。

 

 

 

 

東京大学の学生であった樺美智子(かんば みちこ)さんが、警察隊との衝突の際に死亡したのです。

 

 

 

 

しかしこうした命がけの安保闘争は、新条約の自然成立という形で幕を閉じることになります。

 

 

 

 

条約の批准は、衆議院通過後、参議院の議決がなくても30日後に自然成立することになっているのです。

 

 

 

 

岸信介内閣は条約の発効を見届けたのち、総辞職します。

 

 

 

 

 

 

以上の概略を通してわかることは、岸信介内閣の安保改定に対する強引さです。

 

 

 

 

議会制民主主義を無視することで、多くの国民の政治不信を招いたわけです。

 

 

 

 

岸信介内閣の次の内閣に求められたのは、何といっても国民からの政治に対する信頼を取り戻すことでした。

 

 

 

 

池田勇人内閣が推進した「国民所得を2倍」にするという政策は、国民にわかりやすく理解され、希望が持てる明るい政策だったといえるのではないでしょうか

 

 

 

 

こうして国民の目を安保改定という外交問題から、所得倍増という経済問題に移すことに成功したのです。

 

 

 

 

安保改定問題で政府は国民と敵対する構造を作ってしまいましたが、所得倍増という国民生活を明るくする、わかりやすいスローガンによって、国民を1つにまとめることができた、と表現することが可能だと思います。

 

 

 

 

 

このように考えてくると、やはり歴史を学ぶことはとても重要である、ということができます。

 

 

 

 

政治家が実行する、あるいは実行しようとしている政策には、目には見えない真意があるということです。

 

 

 

 

見えないものを見ようとする姿勢を養う。

 

 

 

 

歴史を学ぶということは、とても価値のあることである、と私は確信しています。