前回の続きになります。

 

 

 

 

明治政府が屯田兵を設置した背景についてでした。

 

 

 

 

結論から言えば、「士族授産」なのです。

 

 

 

 

少し詳しく説明します

 

 

 

 

士族授産」とは、明治維新によって職を失った旧武士階級を新たな職に就かせる政策であり、異業種への転業を助成する政策のことです。

 

 

 

 

1869(明治2)年、明治新政府は薩摩藩(現在の鹿児島県)・長州藩(現在の山口県)・土佐藩(現在の高知県)・肥前藩(現在の佐賀県長崎県)の4藩主に朝廷(天皇)への版籍奉還を出願させます。

 

 

 

 

」とは各藩の領地、「」とは戸籍で領民のことです。

 

 

 

 

藩主が土地と人民を天皇に返納したことにより、旧藩主は土地を媒介(ばいかい)とした主従関係を、家臣である旧藩士と結ぶことができなくなりました

 

 

 

 

こうして、鎌倉時代以来武家社会に長く続いていた、土地を媒介として主人と従者が「御恩奉公」の関係によって結ばれる封建制度が崩壊したのです。

 

 

 

 

 

 

旧藩士や旧幕臣は「士族」とされ、家禄を明治政府から支給されることになりました。

 

 

 

 

本来、藩士であれば藩主が、幕臣であれば幕府がそれぞれ家禄給料のこと)を支給するのですが、藩主・幕府それぞれが消滅した後においては、新しく誕生した統一国家である明治政府が、家禄の支給を引き継いだのです。

 

 

 

 

明治新政府は士族などに対して家禄を支払い、王政復古の功労者には賞典禄(しょうてんろく)を与えていました。

 

 

 

 

この家禄賞典禄を合わせて秩禄(ちつろく)といいますが、その支出は国家の支出の3割を占めるほど、大きな負担となっていました😨

 

 

 

 

政府はこの負担から逃れるべく、全ての秩禄の受給者に金禄公債証書(きんろくこうさいしょうしょ)を与えて、秩禄を全廃したのです。

 

 

 

 

これを秩禄処分といいます。

 

 

 

 

金禄公債証書とは、明治政府が秩禄を全廃するために士族に与えた金券💸です。

 

 

 

 

この金券💸はすぐに現金💸と交換することができなかったため、すぐに現金化したい士族は、この金券💸を高利貸(現在の消費者金融)に売ったりしたのです。

 

 

 

 

士族の多くは農業や商工業に従事し、農業では成功する者もいましたが、商工業では「士族の商法」と呼ばれたように自負心(自分の才能に自信をもつこと)だけ強く、商売の知識・経験がないので大部分が失敗してしまうのです😓

 

 

 

 

金禄公債を元手に慣れない商売に手を出し、没落した士族が大変に多かったのです。

 

 

 

 

こうした没落した士族を放っておくことはできません。

 

 

 

 

そこで明治政府は、苦しんでいる士族を救う政策を実施するのです。

 

 

 

 

これが「士族授産」です。

 

 

 

 

士族授産」は様々な方面から実施されますが、その1つ士族屯田兵として北海道に派遣するというものでした。

 

 

 

 

屯田兵は、明治維新により失業した東北地方士族から優先的に選ばれました。

 

 

 

 

移住した屯田兵には武器農具生活用具住居のほか3年間食糧が支給され、農地として5000坪の未墾地が与えられることになったのです。

 

 

 

 

このように屯田兵歴史を見てくると、屯田兵の役割には大きく「3つ」あることに気づかされます。

 

 

 

 

 

それは、「北海道の開拓」・「ロシアへの防衛」・「士族授産」です。

 

 

 

 

 

ですから開拓次官であった黒田清隆は、「開拓」のほかに、「現地警備力の増強」と「士族授産」の観点から開拓民を士族から募集することを建議したのです。

 
 
 
 
ちなみに、屯田兵の応募資格はこののち、士族から平民に拡大されることになります。

 

 

 

 

 

 

歴史は多角的に分析できなければ、真実にたどりつけません。

 

 

 

 

歴史に限りませんが、何事も様々な観点・角度からみることが重要なのだと思います。

 

 

 

 

どのようにして「」を生きていくべきなのか。

 

 

 

 

それは歴史が教えてくれているように思います。