皆さんは、「屯田兵(とんでんへい)」と呼ばれた人々を知っていますか

 

 

 

 

屯田兵は、明治時代北海道の警備・開拓のために設置された農兵です。

 

 

 

 

以前、ある大学の入試問題で、この「屯田兵」を扱った出題がありました。

 

 

 

 

次のような問題でした😊

 

 

 

 

 

屯田制度は開拓の他に2つの役割を期待されていたのだが、この2つの役割について説明しなさい。」

 

 

 

 

 

屯田兵は、1873(明治6)年に開拓次官であった旧薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の黒田清隆(くろだ きよたか)の建議(けんぎ:意見を上位の人や機関に述べること)によって設置されました。

 

 

 

 

黒田清隆が次官に就任した「開拓使」とは、1869(明治2)年から1882(明治15)年までの間、北海道開拓を担当した官庁です。

 

 

 

 

ちなみに開拓使初代長官は、旧肥前藩(現在の佐賀県長崎県)の藩主であった鍋島直正(なべしま なおまさ)という人物でした。

 

 

 

 

明治政府は、当初開拓使北海道樺太(からふと)を管轄(かんかつ)させていましたが、のち樺太開拓使を設置し、開拓使北海道開拓使と改称しています。

 

 

 

 

廃藩置県後には、北海道開拓使樺太開拓使を統合して再び開拓使を設置し、北海道全域および樺太を管轄させています。

 

 

 

 

そして1875(明治8)年に、日本とロシアとの間で結ばれた「樺太・千島交換条約」後は、千島列島千島国として管轄し、この千島国北海道全域を開拓使が管轄することになりました。

 

 

 

 

明治政府は北海道開拓のため、アメリカの農政家ケプロンや教育家クラークを招きます。

 

 

 

 

クラークは、日本最初の官立(国立のこと)農学教育機関である札幌農学校の教頭に迎えられます。

 

 

 

 

クラークが現在の北海道大学である札幌農学校を去る際に、「Boys,be ambitious like this old man.」と馬上から叫び、この言葉が「少年よ、大志をいだけ」と訳されたことは有名です

 

 

 

 

 

 

北海道開拓政策の基本的方向は、北海道の資源開発の側面と、ロシアに対する防衛という2つの側面から構成されていました。

 

 

 

 

日本はロシアと地理的に近く、ロシアの軍事力を脅威に感じていたためです。

 

 

 

 

明治初期の北海道は、函館(はこだて)に若干の砲兵が配置されたほかは、軍隊の配置がありませんでした。

 

 

 

 

そこで、平時(戦争がない時)は農業に従事し、戦時には軍隊として活動できる人々を北海道に設置することが検討されます。

 

 

 

 

こうして、「農民でありながら軍人でもある屯田兵北海道に設置されることになったのです。

 

 

 

 

屯田兵には、「開拓」と「ロシアに対する防衛」という2つの役割が課されることになりました。

 

 

 

 

 

しかし、こうした近代化を目指す明治政府の開発の陰で、北海道の先住民である「アイヌ」が持つ伝統的な生活・習慣・信仰が破壊されていきました😓

 

 

 

 

明治政府は、1899(明治32)年に、北海道アイヌ民族の保護をはかるために「北海道旧土人保護法」を制定します。

 

 

 

 

旧土人」という用語は、開拓使1878(明治11)年に定めた、アイヌを行政上区別する際の通称です。

 

 

 

 

アイヌ保護の法律が制定されはしましたが、アイヌの生活や文化の破壊を食い止めるものにはならず、1997(平成9)年橋本龍太郎内閣のもとで「アイヌ文化振興法」が新たに制定され、公布されました。

 

 

 

 

この「アイヌ文化振興法」は、アイヌを固有の民族として初めて法的に位置づけた法律ではありましたが、アイヌの人々が求めていた先住権などの民族の権利は盛り込まれず、アイヌの人々にとっては極めて不満の多い法律でした。

 

 

 

 

明治政府のアイヌの人々に対する政策は、同化政策が重視されていました。

 

 

 

 

つまり、アイヌの独自性を尊重し、残していこうというものではなく、本土から多くの人々を移住させて、アイヌ本土人化していこうとするものです。

 

 

 

 

アイヌも日本国に住む住民である、という考え方から、本土に住む日本人の生活様式を積極的に取り入れさせ、「日本人化」していこうとしたのです。

 

 

 

 

明治政府の北海道政策は、こうした負の面もありながら、開拓使屯田兵を設置することで「開拓と防衛」が進められていきました。

 

 

 

 

 

しかし、屯田兵の設置理由は「開拓と防衛」だけではありませんでした。

 

 

 

 

そこには、当時の明治政府が抱えた大きな悩みが反映されていたのです😓

 

 

 

 

一体何だと思いますか

 

 

 

 

是非、考えてみて下さい☻

 

 

 

 

この続きは次回にしたいと思います。