前回の続きになります。
19世紀末、欧米先進資本主義諸国は帝国主義の段階に入っていました。
帝国主義とは、政治・経済・軍事などの面で、他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする政策のことです。
欧米列強の積極的な対外進出の目は、アジア・アフリカなどの発展途上諸地域に向けられることになりました。
そのような中、アジアの大国であった中国清が日清戦争に敗れたで、強大な軍事力を背景とした欧米列強諸国は、中国との交渉により中国国内に租借地を設定し、これらの租借地を根拠地として鉄道敷設権や鉱山採掘権などを得て、中国国内における権益を拡大していったのです。
1912(明治45)年、中国清は滅亡の時を迎えます。
「三民主義」(民族主義・民権主義・民生主義の3原則)を掲げた孫文による革命運動の結果、中国南京で中華民国の建国が宣言されます。
辛亥(しんがい)革命です。
孫文は臨時大総統(だいそうとう:中華民国に設置された元首の名称)に就任したのですが、こののちも中国国内では軍閥(ぐんばつ)と呼ばれる勢力が各地を制圧し、その圧力のもとで孫文を退け、北京で初代大総統となって政権を握ったのが、袁世凱(えんせいがい)でした。
その後も中国国内では混乱が続き、外からは列強の圧力を受けるなど、中国は極めて厳しい状況下にありました😓
袁世凱に権力の座を奪われた孫文は、中国国民党を結成し、広東(カントン)を中心に中国南方に支配を広げます。
1925(大正14)年、中国革命の指導者、孫文が死去します。
この孫文のあとを継いだ人物が、蔣介石(しょうかいせき)です。
蔣介石は、中国国内に群雄割拠する軍閥を打倒し、中国全土を統一するため、国民革命軍を率いて、広東から長江流域を北上し、各地方を制圧していきます。
この中国統一戦争は、北伐(ほくばつ)と呼ばれています。
この北伐は日本にとって非常に都合の悪いものでした。
中国における日本の権益が脅かされる可能性があったためです。
南満州に権益を持っている日本は、満州軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を積極的に支援することで、国民革命軍に対抗し始めます。
しかし、張作霖が国民革命軍との戦闘に敗れると、関東軍の一部に張作霖を排除して満州を直接支配しようとする考え方が台頭(たいとう:勢力を伸ばすこと)するようになります😲
このような考え方のもとで、関東軍は満州へ帰還途中であった張作霖を列車ごと爆破して殺害してしまうのです。
関東軍とは、満州に駐留した日本の陸軍部隊です。
表向きは、いわゆる満州特殊権益の保護を任務としていましたが、実質的には権益の拡大、中国国民革命への干渉、対露・対ソ戦略に深く関与する部隊でした。
この張作霖が殺害されたのちに、重要な動きを見せた人物がいます😐
張作霖の子、張学良(ちょうがくりょう)です。
張学良は、本来であれば敵にあたる蔣介石と合流し、満州を国民政府(中国国民党が組織した中華民国の政府)の土地と認めたのです😲
張学良からすれば、日本は父である張作霖を殺害した憎き敵です。
その日本と敵対している蔣介石と手を組む、まさに敵の敵は味方とばかりに日本の満州支配に抵抗する姿勢を見せたのです。
北伐は、1928(昭和3)年に国民革命軍が北京を占領することで完了し、満州の地も国民政府の勢力下に入ります。
その後、国民政府は列強諸国が中国に持っていた権益の回収(列強が設定した鉄道の回収・租借地の回復・外国軍隊の撤退など)を目指して、国権回復に乗り出します。
こうした動きの中で、満州をはじめとした中国各地で組織的な日本商品のボイコットが起こり、さらに中国側により南満州鉄道に並行する形で線路が敷設されるなどします。
南満州鉄道並行線が敷設された影響で、南満州鉄道の経営が赤字になるなど、日本の経済活動は大打撃を受けることになりました😞
こうした状況の中「ある組織」を中心として、満州を実力で日本の支配下に置こうとする動きが加速していくことになります。
この「ある組織」とは一体何か…。
この続きは次回にしたいと思います☻