大学入試問題や県立の中等教育学校の入試問題などを分析していると、「金閣銀閣の特色」について出題されていることがあります。

 

 

 

 

 

そこで今回は、室町時代に室町幕府将軍である足利氏によって作られた2つの楼閣(ろうかく:高層の建物のこと)建築についての歴史を深めてみたいと思います☻

 

 

 

 

 

 

まず「金閣」とは、京都市北区鹿苑寺(ろくおんじ)境内に建つ3階建ての楼閣建築です。

 

 

 

 

室町幕府第3代将軍足利義満は、京都北山北山第(きたやまてい)と呼ばれる邸宅を作ります。

 

 

 

 

 

かなり難しいですが、皆さんは、西園寺公経(さいおんじ きんつね)という鎌倉時代の貴族を知っていますか❓

 

 

 

 

鎌倉幕府初代将軍であった源頼朝は、一条能保(いちじょう よしやす)という貴族と結婚します。

 

 

 

 

この源頼朝と、一条能保との間に生まれた娘を妻とした人物が、西園寺公経でした。

 

 

 

 

つまり、源頼朝の姪(めい)を妻とした縁から鎌倉幕府との結びつきを持ち、関東申次(かんとうもうしつぎ)に任命されることで、朝廷内での勢力を伸ばします。

 

 

 

 

関東申次とは、鎌倉時代に朝廷側の窓口として幕府との連絡にあたった役職です。

 

 

 

 

この役職は、代々西園寺家が世襲することになり、西園寺家は朝廷内において大きな権限を握ることになったのです。

 

 

 

 

 

ちなみに西園寺家は、清華(せいが)家1つです。

 

 

 

 

 

清華家とは、朝廷における貴族社会の家格(かかく)の1つで、藤原摂関家に次ぐ格を持った上級貴族です。

 

 

 

 

家名は、西園寺公経京都北山に「西園寺」という寺院を建立したことに由来しています。

 

 

 

 

この西園寺公経以来、代々西園寺家の別荘であったものを、足利義満河内国(かわちのくに:現在の大阪府)の所領と交換することで手に入れ、ここに邸宅を作るのです。

 

 

 

 

北山第には、足利義満の居所をはじめとして様々な建築物が作られるのですが、この中に金色に輝く三層舎利殿(しゃりでん)がありました。

 

 

 

 

この舎利殿が、金閣です。

 

 

 

 

舎利とは、仏教の開祖である釈迦の遺骨のことです。

 

 

 

 

そして、釈迦の遺骨である舎利をおさめて置く建物が舎利殿です。

 

 

 

 

足利義満によって作られた北山第は、足利義満の死後、足利義満の子である足利義持(あしかが よしもち)によって主要な建物は移築されるか、破却されてしまいました。

 

 

 

 

そして京都北山には、舎利殿(=金閣)と庭園のみが残されることになります。

 

 

 

 

その後足利義満の子、第4代将軍足利義持は、この北山第禅寺とします。

 

 

 

 

これが鹿苑寺です。

 

 

 

 

通称金閣寺と呼ばれますが、正式には鹿苑寺金閣といいます。

 

 

 

 

 

もともとは3階部分である上層にのみ金箔(きんぱく)が貼られており、1950(昭和25)年に放火によって焼失するまで、北山第の唯一の遺構(昔の建築の残存物のこと)として当時の姿を現代に伝えていました。

 

 

 

 

再建された現在では、2階部分である中層にも金箔が貼られています。

 

 

 

 

金閣は、初層・中層、つまり1階2階部分は平安時代に成立した貴族住宅の様式である殿造(しんでんづくり)風になっています。

 

 

 

 

上層、つまり3階部分は禅宗様(ぜんしゅうよう)と呼ばれる、中国宋からもたらされた寺院建築法によって作られています。

 

 

 

 

 

 

 

室町時代、幕府は朝廷が位置する京都におかれたことや、足利義満によって実施された日明貿易・日朝貿易による、東アジア世界における活発な交流などの影響から、武家文化・貴族文化・大陸文化・日本の伝統文化の融合がなされた時代でした。

 

 

 

 

 

 

足利義満京都北山北山第を建てたことによって、北山文化という名称が誕生しました。

 

 

 

 

つまり武士は文化の担い手として、大きな存在感を示したのでした。

 

 

 

 

しかし、武家文化の象徴である「金閣」建立に用いられた建築様式が「寝殿造禅宗様」であったことからわかるように、北山文化は「貴族文化と大陸文化」が融合された文化であった、といえます。

 

 

 

 

 

武家の独自性を文化に反映させるまでには至ってない、といえるわけです。

 

 

 

 

武家の独自性は、いつどのような形で文化にあらわされるのか…。

 

 

 

 

 

この続きは次回にしたいと思います。

 

 

 

 

皆さんも是非、考えてみて下さい😊