突然ですが皆さんは、長屋王(ながやおう)という人物を知っていますか❓❓
長屋王は、天武天皇(天智天皇の弟)の子で、古代史における最大の皇位継承戦争と言われた壬申の乱で活躍した高市(たけち)皇子を父とし、天智天皇の娘である御名部(みなべ)皇女を母として、妻には元明天皇の娘である吉備(きび)内親王を迎えるという非常に高貴な血筋を持つ皇族です😊
中臣鎌足(のち藤原鎌足)の子である藤原不比等(ふひと)も、長屋王に娘を嫁がせていました。
720(養老4)年に、藤原不比等がこの世を去ると、長屋王が政界の首班に就任します。
現代で言えば、内閣総理大臣の職に就任するというイメージです☻
しかし、長屋王は729(天平元)年、左道(さどう:正しくない道)を学び国家を傾けようとしていると訴えられ、妻の吉備内親王や子の膳夫(かしわで)王・葛木(かずらき)王らとともに自殺してしまうのです😨
長屋王はなぜ、自殺に追い込まれてしまったのでしょうか❓
今回は長屋王自殺の理由について、歴史を深めてみたいと思います☻
この問いを考えるにあたっては、藤原氏の動きが重要になってきます。
藤原鎌足の子、藤原不比等には多くの子供がいるのですが、まず娘の藤原宮子についてみてみます。
藤原宮子は天武天皇の孫にあたる文武(もんむ)天皇の妻となり、聖武天皇を産んでいます👶
聖武天皇は藤原氏にとって初めての天皇家との子供で、藤原氏が政界で権力を掌握する上で大変に重要な存在になっていきます。
そして藤原不比等は、聖武天皇に宮子の腹違いの妹である光明子を嫁がせます😲
腹違い(父親が共通で母親が異なること)とは言え、姉の宮子の子、つまり甥と夫婦になるというのはどういう気持ちだったのだろうか❓と授業で生徒と一緒に考えることがあります😓
724(神亀元)年に聖武天皇が即位し、その3年後、聖武天皇と光明子との間に待望の男の子が誕生します👶
基王(もといおう)と呼ばれたこの赤子👶は、残念ながら早逝してしまうのです😢
聖武天皇と光明子の間には、基王が誕生する前に阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が誕生していたのですが、この子は女児であったため、男児の誕生が待たれていました。
待望の男児誕生でしたが早逝してしまい、聖武天皇並びに光明子は涙にくれることになるのです😢
しかしこの状況に対して、強烈なまでの危機感と焦燥感を持っていた人物達がいました。
宮子や光明子の兄弟であった、藤原武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の4人でした(藤原四子という)
実は、聖武天皇の夫人は光明子だけではなく、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)という女性もいました。
聖武天皇と県犬養広刀自の間には、安積(あさか)親王という皇子が誕生するのです👶!
藤原氏にとって、これは一大事です😲!!!
聖武天皇と光明子の間に生まれた男児が早逝せず、すくすくと成長していたのであれば、聖武天皇の後継者として皇位を継承し、藤原氏系の天皇として、藤原氏の中央政界における権力を保障し得る存在になったはずでした。
しかし、藤原氏系ではない男児が天皇として即位してしまった場合、藤原氏は天皇の外戚(=母方の親戚)としての立場を失い、中央政界における権力の掌握が著しく困難になってしまいます😓
ちなみに安積親王のその後ですが、実に不可解な死を遂げることになります。
一説によれば、藤原武智麻呂の子である藤原仲麻呂によって暗殺された、とする説があります…。
聖武天皇の次の皇位継承をめぐって、藤原氏には大きな危機感が生じることになります。
そのような中、藤原氏は起死回生の戦略を立案するのです!
その戦略とは、一体どのようなものだったのでしょうか❓
その戦略は、長屋王の自殺とどのような関係があるのでしょうか❓
この続きは、次回にしたいと思います。
是非皆さんも、考えてみて下さい☻