前回の続きになります。

 

 

 

 

 

山本権兵衛内閣によって「軍部大臣武官制」へと改正されたのですが、ある大事件後に組織された内閣の手によって「軍部大臣現役武官制」の元の制度に戻されてしまう。

 

 

 

 

その大事件と内閣とは…

 

 

 

 

についてでした😊

 

 

 

 

 

 

「大事件」とは、二・二六事件です。

 

 

 

 

二・二六事件とは、1936(昭和11)年2月26日早朝、東京で起こった陸軍の反乱事件のことです。

 

 

 

 

陸軍第1師団管下の歩兵第1・第3連隊を主力とした皇道派の将校20名、下士官88名、兵1357名などが内閣総理大臣岡田啓介内大臣斎藤実(さいとう まこと)、大蔵大臣高橋是清(たかはし これきよ)、教育総監渡辺錠太郎(わたなべ じょうたろう)、侍従長鈴木貫太郎らを急襲、さらに別動隊は神奈川県湯河原町で前内大臣牧野伸顕(まきの のぶあき)を襲撃しました😲

 

 

 

 

重臣の殺害に激怒し、自ら近衛師団を率いて討伐する、との言葉を発した昭和天皇の強い意志によって、事態は収拾に向かいます。

 

 

 

 

 

この事件の背後には、陸軍省や参謀本部の中堅幕僚官僚を中心に、革新官僚(岸信介ら)や財閥と結んだ軍部の強力な統制のもとで総力戦体制樹立を目指す統制派と、直接行動による既成支配層の打倒、天皇親政の実現(→昭和維新)を目指す皇道派との、国家構想をめぐる対立が含まれていました。

 

 

 

 

この事件を引き起こした皇道派は反乱軍として鎮圧され、陸軍軍法会議によって反乱の首謀者たちは処刑されます。

 

 

 

 

事件後、統制派皇道派を排除して陸軍内での主導権を確立し、陸軍の政治的発言力はいっそう強まることになります。

 

 

 

 

坂野潤治『近代日本政治史』岩波書店 2006年」

 

 

 

 

上記の書籍には、皇道派なき後の軍部の高圧的な姿勢について、次のように書かれています。

 

 

 

 

 

「まず陸軍は組閣に当たって広田首相に圧力をかけ、政(立憲政友会)・民(立憲民政党)両党から二名ずつの入閣者を一名ずつに減らすことを要求し、それが容れられないと政党関係者のポストを経済関係閣僚に限定することを強要した。…次いで陸軍は、対中国強硬外交と対ソ戦を意識しての軍備の飛躍的充実を内容とする国策の樹立を新内閣に迫り、さらには軍部大臣を現役の将校に限るという改革を要求した。」

 

 

 

 

二・二六事件後に成立したのが、広田弘毅(ひろた こうき)内閣でしたが、広田内閣は閣僚の人事や軍備拡張・財政改革などについて軍の要求を入れて「かろうじて」成立した内閣でした。

 

 

 

 

 

広田弘毅は、第2次世界大戦後にA級戦犯として訴追され、文官ではただ一人絞首刑宣告を受けて処刑された人物です。

 

 

 

 

 

首相としての広田弘毅は、政治的統率力を発揮することなく、軍部の独走をとめることができませんでした。

 

 

 

 

この広田弘毅内閣において、軍部大臣現役武官制が復活されます。

 

 

 

 

そして陸軍現役武官制を悪用して、陸軍宇垣一茂(うがき かずしげ)の組閣を陸軍大臣を推挙しないことで断念させ、さらに海軍米内光政(よない みつまさ)内閣の陸軍大臣であった畑俊六(はた しゅんろく)が米内内閣に反発し単独辞職し、内閣を退陣に追い込んでいます😓

 

 

 

 

 

 

軍部大臣現役武官制は、政党の影響力が軍部に及ばないようにするために作られたシステムでした。

 

 

 

 

しかしこのシステムはのちに悪用されるようになり、軍部(特に陸軍)の意向に沿わない内閣を倒閣させる道具として使われることになります。

 

 

 

 

こうして軍部の専制支配体制が確立され、日本の政治に軍部の意向が色濃く反映され、日本は戦争への道を歩むことになるのです。

 

 

 

 

 

 

 

私は歴史は繰り返されるものである、と生徒に話しています。

 

 

 

 

しかし、繰り返されるといっても以前と全く同じ形ではなく、姿かたちを変えて繰り返されようとします。

 

 

 

 

繰り返されようとした時に、「気づけるか」が重要になってきます。

 

 

 

 

 

歴史という教科は単なる暗記科目なのではなく、自分たちの未来を守るために学ぶ学問なのだと私は考えています。