前回の続きになります。
軍部大臣現役武官制は、第2次山県有朋内閣によって定められた制度ですが、山県有朋内閣は議会運営の円滑化のため、ある政党と提携関係を結んでいました。
その政党が憲政党です。
自由党(党首:板垣退助)と進歩党(旧立憲改進党。党首:大隈重信)が合同して憲政党が結成され、日本初の政党内閣が誕生します。
しかし旧自由・進歩両党の対立が深刻化し、日本初の政党内閣はわずか4か月で瓦解してしまいます😓
そして、憲政党は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)とに分裂します。
大学入試問題や歴史能力検定(日本史1級)にも出題される分野になります😊
そして、第2次山県有朋内閣を公然と支持したのが、この憲政党(旧自由党系)でした。
なぜ憲政党は第2次山県有朋内閣を支持したのでしょうか❓
現在でもそうなのかも知れませんが、政権に協力して予算を獲得することが重要です。
獲得した予算を政党の支持基盤である人々や地域に還元することで、次の選挙における票田とすることができるからです。
しかし!
第2次山県有朋内閣の与党となって党勢の拡張に専念していた憲政党が、政党内閣に対する強烈なまでの予防措置である軍部大臣現役武官制を本気で阻止しようとしなかったことは、その後の政党政治に大きな影響を及ぼすことになってしまうのです😨
歴史は実に勉強になります😓
目先の利益ばかりを追い求めて、今の状況が今後どのように推移していくのか、ということを分析できないでいると、後々大変な事態が起こることになってしまう…。
教訓にしておきたい歴史です。。
話を元に戻しますが、陸軍大臣であった上原勇作の単独辞表によって第2次西園寺公望内閣が倒されたのちに成立した内閣が、第3次桂太郎内閣でした。
この第3次桂太郎内閣に対して、政党・言論界・都市民衆は激しく反発するのです😠
その理由は、桂太郎内閣が「宮中と府中(行政=政治)の別」を無視して組閣されたからでした。
当時は宮中と府中(行政=政治)の別を明らかにし、宮中を政治から切り離す体制が採用されていました。
政治的影響が宮中に及ばないようにしたのです。
宮中の事務に当たる宮内省(現在の宮内庁)は内閣の外に設置され、御璽(ぎょじ:天皇の印)・日本国璽(にほんこくじ:日本国の印)の保管者で、天皇の側近にあって相談相手の任務にあたる内大臣(ないだいじん)が宮中に設置されました。
この内大臣と侍従長(天皇の側近官)を兼務していた桂太郎が内閣を組織したことは、宮中と府中の別を乱すものであり、さらに大正天皇が新しい天皇になったばかりで、国民の間に新しい政治への期待が高まっていたこともあり、桂太郎に反発する勢力は日に日に拡大していったのです😤
こうして組閣以来2か月足らずで退陣に追い込まれた桂太郎内閣の後継となったのが、海軍出身の山本権兵衛(やまもと ごんべい)内閣でした。
山本権兵衛内閣は立憲政友会を与党とし、政党の意向を取り入れた政策を実行します。
その民主化政策の1つが、軍部大臣現役武官制の改正でした。
現役の大将・中将でなくとも、現役を退いた予備役・後備役の大将・中将でも陸軍大臣・海軍大臣となれるように改正され、内閣に対する軍の影響力行使を制限しようとしたのです。
軍部に対する政党の影響力が格段に強まることになったのです。
こうして「現役」ではなく、「軍部大臣武官制」になったものの、予備役・後備役の将官からの就任例はなく、実際には現役武官の就任が継続されることになりました。
やはり「現役」以外では、軍部に対する影響力という点で難があったのだと考えられます。
それでも、民意が反映された政党の力が強まったことに変わりはありませんでした。
しかしこの「軍部大臣武官制」への改正が、ある大事件後に組織された内閣の手によって「軍部大臣現役武官制」のもとの制度に戻ってしまうことになってしまいます😲
この大事件とは一体何か…❓
そしてなぜ大事件後の内閣は、「現役」規定を復活させてしまったのか…❓
この続きは次回にしたいと思います。