「軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)」
みなさんは、上記の制度を知っていますか❓
戦前の内閣制度において、陸軍大臣・海軍大臣の任用資格を現役の大将・中将のみに限定するとした制度のことです。
大学入試でもよく出題されるテーマになります☻
この制度は明治時代に作られ、大正時代に変更がなされ、昭和時代に明治時代のもとの制度に戻された、という歴史を持っています。
この制度の歴史的変遷について論述させることがあるのです。
1894(明治27)年~1895(明治28)年にかけて、日本と中国(清国)が朝鮮支配をめぐって戦った戦争である日清戦争後、日本政府と政党の関係は大きく変化することになります。
日本政府と政党は衆議院において激しく対立していたのですが、日清戦争後、政府と衆議院の第一党である自由党は、戦後経営をめぐって共同歩調をとるようになり、公然と提携を宣言します。
これにより、自由党党首であった板垣退助が内務大臣として第2次伊藤博文内閣への入閣を果たします😲
また伊藤博文内閣のあとを受けて成立した第2次松方正義内閣は、立憲改進党の後進である進歩党と提携し、進歩党党首であった大隈重信が外務大臣として入閣します。
そして、のちにこの2つの政党は合同して憲政党を結成し、伊藤博文をはじめ元老の推薦を受けた大隈重信と板垣退助が組閣を命じられ、大隈重信を首相とし憲政党を与党とする日本で最初の政党内閣が誕生することになります😊
しかし、このような政党内閣の出現に危機感を抱いた人物がいました。
その人物こそ、徴兵制度を確立し、近代軍制の基礎を築いた山県有朋(やまがた ありとも)でした。
日本初の政党内閣が倒れた後に組閣された第2次山県有朋内閣は、「政党の影響が軍部に及ぶのを防ぐため」に、陸軍・海軍両大臣は現役の大将か中将でなければならないとする制度を設けたのです😲
この制度は政党内閣に対する予防措置であり、政党内閣に対する軍部の独立性が強まることになります。
軍に対する文民統制が不可能になったばかりか、軍部は軍の代表を必ず内閣に送り込むことで、大きな発言権を確保することになりました。
つまり、政党員の陸海軍大臣就任が不可能となり、軍部が大臣を出さない限り内閣が不成立になるため、軍部の発言力の強大化・政治介入の契機になってしまったのです。
上記からわかるように、「現役武官制」は使い方次第によっては、軍部に内閣の死命を制し得る力を与えてしまうのです。
要するに、軍部が気に入らない内閣が組閣された場合、軍部は大臣を辞めさせて後任の人事を行わず、内閣不成立によって総辞職させてしまうのです。
この軍部大臣現役武官制の悪用によって、倒閣の憂き目にあった内閣が存在します😢
1911(明治44)年に成立した、第2次西園寺公望(さいおんじ きんもち)内閣です。
日露戦争に勝利し、東アジアの強国となった日本は、さらなる軍備拡張計画を立案します。
しかし、日露戦争の戦費を内外の国債(約13億円)と増税(約3.2億円)によって賄ったばかりか、賠償金を得ることができなかった日本の財政事情は、大変に苦しいものがありました。
陸軍は将来のロシアの復讐戦に備えて軍拡案が考案され、19~20師団整備を目標とした大軍拡を目論んでいました。
そのような中で、まずは2師団の増設が第2次西園寺公望内閣に強く要求されることになります。
第2次西園寺公望内閣は、財政難を理由に師団増設を拒否しますが、これに抗議した陸軍大臣の上原勇作(うえはら ゆうさく)は、単独で天皇に辞表を提出します。
その後、陸軍が後任の大臣を出さなかったため、西園寺公望内閣は総辞職に追い込まれてしまったのです😲
こうして「軍部大臣現役武官制」は、政党内閣からの独立性を保つどころか、政党内閣にとって非常に危険な制度として、大きな影響力を持つことになるのです😖
この制度はこれからどのような変遷を遂げるのでしょうか❓
この続きは次回にしたいと思います。