前回の続きになります☻
「明治憲法下における内閣総理大臣」は、どのような形で選出されたのか、ということでした😊
1889(明治22)年2月11日に発布され、1946(昭和21)年11月3日の「日本国憲法」の公布まで存続した「大日本帝国憲法」は、全7章76条から成っています。
しかし❢❢
大日本帝国憲法の全ての条文を読んでみても、「内閣」・「総理大臣」・「首相」などの文言は「一切」見当たりません😓
強いて挙げるとすれば、「第四章 国務大臣及枢密顧問」中にある「第五十五条」に次のような文言があります。
<第五十五条>
国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ズ 凡(すべ)て法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
国務各大臣は、天皇の行為について進言し、その進言を採用していただくことを要請し、その全責任を負う、ということが文言として書かれているのみなのです😲
内閣総理大臣は親任官でした。
親任官とは、天皇による親任式によって任命される最高の官吏(かんり:役人のこと)です。
親任官であるにも関わらず、大日本帝国憲法には一切明文化されず、選出に関する規定なども一切明記されてはいないのです😨
大日本帝国憲法第四条に、国家の元首にして統治権を総攬(そうらん:残すところなく全てを見る)する天皇を補佐する国務各大臣の一員にすぎなかった内閣総理大臣は、国政選挙で選出される必要がなかったのです。
内閣総理大臣は国務各大臣を束ねる内閣の首班として存在してはいたのですが、他の国務大臣と同格の立場であり、現在の首相と比較すると権限も弱く、存在感を遺憾なく発揮していたとは言い難い印象があります😓
しかし当然ですが、国内政治・外交交渉などを担当するのが内閣である以上、やはり内閣総理大臣は要職です。
では、内閣総理大臣はどのような形で選出されたのでしょうか❓❓
内閣総理大臣の選定にあたり、重要な役割を果たした政治家が存在します☻
それが、元老(げんろう)でした。
元老とは、明治から昭和前期にかけて後継首相選任や最重要国策の決定について、天皇を補佐した特定の政治家のことです。
日本史の教科書等には、「非公式に天皇を補佐する元老」という記述があります。
元老は全部で「9人」存在しました。
①伊藤博文(長州藩出身)
②黒田清隆(薩摩藩出身)
➂山県有朋(長州藩出身)
④松方正義(薩摩藩出身)
⑤井上馨(長州藩出身)
⑥西郷従道(薩摩藩出身:西郷隆盛の実弟)
⑦大山巌(薩摩藩出身)
⑧桂太郎(長州藩出身)
⑨西園寺公望(公家出身)
上記を見てわかるように、元老はほぼ長州藩or薩摩藩出身者に限られています。
薩長藩閥(はんばつ)と呼ばれたように、明治維新期に中心として活躍した長州・薩摩両藩出身のメンバーが、政治の第一線を退いたのちも政界の最上層に位置して国政に影響力を行使し続けたのです。
それが、元老でした。
しかし、⑨西園寺公望が1940(昭和15)年11月に死去し、これをもって元老制度は終焉を迎えます。
大日本帝国憲法下においては、元老が後継首相を選定し、元老によって推挙された人物が天皇によって内閣総理大臣に任命(大命降下といいます)されるシステムでした。
現在の日本国憲法第六十七条を見ると、「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だって、これを行ふ。」
とあり、内閣総理大臣の選定にあたって間接的ではありますが、民意が反映していると考えることができます。
しかし、大日本帝国憲法下においては、内閣総理大臣の選定にあたり民意は全く反映されず、元老という非公式の存在の推挙によって決定されます。
このような首相選定の慣行は、極めて透明性を欠いており、国政選挙による民意を考慮に入れる必要性もない。
大日本帝国憲法下においては、「内閣総理大臣」に就任するために「国政選挙で選ばれた衆議院議員」である必要がなかったのです。
戦前と前後とでは、様々な面でシステムが異なります。
授業では、歴史的事象の意味や意義について生徒に考えさせることが大切だと思います。
歴史の「なぜ」を問う授業をすることこそが、歴史教師に課せられた使命である、と私は考えています😊