以前、ある大学の入試問題で、興味深い内容を問う問題に出会ったことがあります😊

 

 

 

それは、次のような内容でした。

 

 

 

大日本帝国憲法下の内閣総理大臣の中で、国政選挙によって国民から選出されて衆議院議員になった経歴を持つ者はわずかしか存在しない。なぜなのか、その理由を述べなさい

 

 

 

大日本帝国憲法明治憲法)下における内閣総理大臣の中で、衆議院議員経験者はわずか5人しかいません😲

 

 

 

 

明治憲法下における議会(帝国議会といいます)は、貴族院衆議院の二院から成り立っていました。

 

 

 

貴族院は、皇族華族勅任議員(国家功労者・多額納税者など)から成っていて、国政選挙によって議員が選出されたわけではありませんでしたので、貴族院議員の選出については民意が反映されてはいなかったと言えます。

 

 

 

一方、衆議院は、年齢・性別・納税額による制限選挙が採用されており、全ての民意が反映されていたわけでは決してありませんでしたが、それでも唯一の国民の代表機関として、それなりの民意が反映された形での議論が議会で展開されていました。

 

 

 

 

明治憲法下において、内閣総理大臣に就任した者の中で、衆議院議員経験者がほとんどいないということは、内閣総理大臣に就任するにあたり、国政選挙で当選するということが必要条件ではなかった、ということを意味しています。

 

 

 

 

では明治憲法下における内閣総理大臣の選出は、どのような形式で行われていたのでしょうか

 

 

 

 

このことを考察する前に、衆議院議員を経験した内閣総理大臣5人について簡潔に見てみたいと思います🌝

 

 

 

 

 

原敬はら たかし

 

 

 

原敬は爵位を持たず、岩手県の出身でいわゆる藩閥政治家(薩摩・長州・土佐・肥前の出身の政治家)ではなく、日本で初めて衆議院に議席をおく総理大臣だったので、「平民宰相」と呼ばれたことは有名です。

 

 

 

立憲政友会結成に参加し、伊藤博文西園寺公望(さいおんじ きんもち)を助けるなど優れた指導力を発揮します。

 

 

 

しかし、普通選挙の実施を拒否し、社会運動にも冷淡な姿勢で臨むなど、世論の非難を浴びる中、東京駅頭で大塚駅員の中岡艮一(なかおか こんいち)に暗殺されてしまいました。

 

 

 

 

 

高橋是清たかはし これきよ

 

 

 

高橋是清は、江戸幕府御用絵師川村家に生まれ、のちに仙台藩士高橋家の養子となっています。

 

 

 

高橋是清は政治家としての顔よりも、財政金融家として顔のほうが有名で、のちに日本銀行総裁に就任しています。

 

 

 

原敬内閣では大蔵大臣(現在の財務大臣)に就任し、原敬暗殺後は、首相兼大蔵大臣立憲政友会総裁として日本の政治を牽引(けんいん)します。

 

 

 

世界恐慌に伴い落ち込んだ日本の景気回復に多大な功績をあげますが、インフレーション防止のための軍事費抑制が軍部の反感をかい二・二六事件で陸軍の青年将校に暗殺されてしまったのです。

 

 

 

 

 

加藤高明かとう たかあき

 

 

 

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社 2009年」

 

 

 

私の授業構成上、よく参考にさせていただいている加藤教授の著作の中に、加藤高明に関する次のような記述がありますので、参考にさせていただきたいと思います。

 

 

 

加藤高明は愛知県の出身で、東京帝国大学法学部を卒業後は三菱本社に入社しています。三菱の創業者である岩崎弥太郎に認められ、岩崎弥太郎の長女春治(はるじ)と結婚しました。

 

 

 

第1次世界大戦が勃発した時、日本の内閣は第2次大隈重信内閣でしたが、加藤高明は大隈内閣で外務大臣の要職にありました。

 

 

 

のち加藤高明憲政会という政党を率いていくのですが、選挙資金は基本的に三菱に依存できるので、党員の選挙費用に困ることはなかった、と言われています😅

 

 

 

 

 

浜口雄幸はまぐち おさち

 

 

 

浜口雄幸は高知県の出身で、東京帝国大学政治科を卒業後、大蔵省に入省しています。第2次大隈重信内閣で大蔵次官となり、以後政界に進出しています。

 

 

 

立憲民政党の創設時に初代総裁に就任。

 

 

 

その風貌(ふうぼう)から「ライオン宰相」と称された浜口雄幸は、ロンドン海軍軍縮条約の調印を成功させ軍縮を実行するなど、彼の指導力は党内・財界はもとより昭和天皇からも強く支持されたと言います。

 

 

 

しかし、不況下の政治不信のなか、東京駅で佐郷屋留雄(さごうや とめお)に狙撃され、その傷が原因で亡くなってしまいました。

 

 

 

 

 

犬養毅いぬかい つよし

 

 

 

犬養毅は岡山県の生まれで、慶應義塾を中退後に新聞記者を経て、第1回衆議院議員総選挙で当選して衆議院議員となり、以後第18回選挙まで連続当選しています。

 

 

 

明治~昭和期の政党政治家である尾崎行雄とともに、「憲政の神様」と呼ばれました。

 

 

 

のち、元老西園寺公望の推薦で内閣を組織し、首相兼外務大臣に就任します。

 

 

 

しかし、よく知られているように、五・一五事件で殺害されてしまい、犬養毅戦前最後の政党内閣首相となってしまったのです😨

 

 

 

 

今まで説明した5人の政治家のうち、実に4人が殺害されているのです…。

 

 

 

 

 

次回、「明治憲法下における内閣総理大臣」に関する考察を深めていきたいと思います😊