前回の続きになります😊
アメリカの対日占領政策における「民主化」とは、どのような形で実現されていったのか❓
ということでした😊
マッカーサーは、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣が総辞職したあとに成立した幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)内閣に対して、「五大改革指令と憲法の自由主義化」を指示します。
五大改革指令とは、幣原喜重郎が1945(昭和20)年10月に初めてマッカーサーを訪問した際に、マッカーサーが幣原喜重郎に述べた次の5点の民主化政策の指示のことです。
①婦人参政権の付与
②労働組合の結成奨励
④秘密警察などの廃止
⑤経済機構の民主化
上記の5点について、簡潔な説明をしておきたいと思います😊
①婦人参政権の付与についてです。
1945(昭和20)年12月、日本では衆議院議員選挙法が改正されて、選挙人資格年齢の引き下げと女性参政権が初めて認められました。
戦前は満25歳以上の男子にしか選挙権が与えられてはいませんでしたが、新選挙法では満20歳以上の男女に選挙権が拡大されたのです❢❢
この新選挙法のもとで、1946(昭和21)年4月に戦後初の総選挙が行われた結果、39名の女性議員が誕生することになりました。
この「39名」という数字は、大学入試において知っておくべき数字であると思います☻
②労働組合の結成奨励についてです。
②を扱う前に、そもそもなぜ日本は戦争に向かっていってしまったのでしょうか❓
この大きな問題を、「日本の資本主義の在り方」という側面から考えてみる必要があります。
端的に解答を試みるのならば、「国内市場が狭かった」という点に尽きるのだと思います。
つまり、国民が貧しく、購買力が著しく小さい(弱い)のです😲
労働者は資本家(会社経営者・工場経営者)によって徹底的に搾取される存在でした😞
このような資本家の横暴に対して、労働運動やストライキを起こせば、治安警察法によって弾圧されることになります。
治安警察法とは、1900(明治33)年、第2次山県有朋(やまがた ありとも)内閣によって制定された労働・社会運動弾圧のための法律です。
1925(大正14:第1次加藤高明内閣)年に制定された治安維持法とともに、労働・社会運動取り締まりの法的根拠ともなりました。
労働者の基本的人権としての労働基本権(「団結権・団体交渉権・争議権」の労働三権のこと)が制限されていたため、戦前期における労働者は貧しく、日本の工場で作られた日本製品を買う力(お金💸)がないのです😓
ですから、日本の会社・工場は製造した製品を売るために、海外に目を向けるしかなく、海外市場や植民地を求めてアジア侵略が開始されることになるわけです。
教科書には、【低賃金構造に基づく国内市場の狭さを解消して、対外侵略の基盤を除去する】観点から、GHQは労働基本権と労働組合の結成支援を行った、との記述があります。
資本主義を支える労働者の権利を保障することで、資本家から不当な扱いを受けないようにすることはもちろん、労働者の低賃金構造によって再び日本が対外侵略の道を選択しないよう、GHQは積極的に労働者の保護を行ったのでした。
1945(昭和20)年、労働基本権を保障した労働組合法が制定されます。
1946(昭和21)年には労働関係調整法、1947(昭和22)年には労働基準法がそれぞれ制定されます。
労働基準法では、労働条件の最低基準を定めています。
当初は週48時間であった労働時間の基準は、現在では週40時間とされています。
労働者のみならず資本家(雇用主)にとっても、労働組合法・労働関係調整法・労働基準法の労働三法は、非常に重要な法律です🌝
また、1947(昭和22)年には労働省が設置されます。
労働保護行政を担当する省です。
労働者の生活は、法律の上では戦前と比較にならない程、国家から保護されることになったのです。
④秘密警察などの廃止
⑤経済機構の民主化
については、次回にしたいと思います😐