今回は「戦後史」を扱ってみたいと思います。
以前ある大学の入試問題で、「アメリカによる対日占領政策が、1948(昭和23)年から1949(昭和24)年にかけて大きく転換する。この時期における転換は、どのような事情に基づいたものであるか説明しなさい。」という内容の出題がありました🌝
日本史の教科書を丹念に読みながら、この問いについて考えていきたいと思います😊
日本国はポツダム宣言【1945(昭和20)年7月26日、アメリカ・イギリス・中国の3か国により発表されたヨーロッパの戦後処理と対日戦争終結のための宣言】に基づいて、戦後連合国によって占領されることになりました。
ドイツとは異なり(ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって分割占領され、直接軍政のもとにおかれた)、日本の場合はアメリカ軍による「事実上の」単独占領下におかれました。
なぜ「事実上」なのかと言えば、アメリカの大型旅客機メーカーとして知られるボーイング社によって開発された「B29爆撃機」による空襲や、原子爆弾によって日本を降伏させたアメリカの地位は、他の連合国と比較しても別格だったからです。
アメリカによって実施された占領政策の「当初の」目標は、大きく2つでした。
①非軍事化
②民主化
上記の2点を通じ、アメリカや東アジア地域にとって、日本が再び脅威となることを防ぐことに主眼がおかれたのです。
まず、①非軍事化の側面から見ていきたいと思います。
日本国内外に配備された陸軍・海軍の将兵の武装解除・復員(ふくいん)が進み、日本の軍隊は解体・消滅しました。
復員とは、動員に対応する軍事用語で、召集・徴発などを解除し、平常状態に戻すことです。
復員自体は喜ばしいことなのですが、海外から復員する軍人や民間の引揚げ者、軍需工場の労働者などが一夜のうちに仕事を失う事態が生じることになります😨
しかも日本国内の人口が急激に増えることにより、深刻な食糧不足に陥ることになるのです😨
都市民衆は、農村への買い出しや闇市での闇買いなどで飢えをしのいだのです。
また、1945(昭和20)年9月~12月にかけて、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本の戦争指導者を逮捕し、そのうち28名がA級戦犯(「平和に対する罪」に問われた者)として起訴されました。
1946(昭和21)年1月に、マッカーサーによって極東国際軍事裁判所の設置が命じられ、同年5月3日に開廷した裁判(東京裁判)は、1948(昭和23)年11月まで続きました。
28名の被告の中、免訴者(1名)・死亡者(2名)を除く、25名全員に有罪判決が下されました。
教科書にも記述されている通り、東条英機以下7名は絞首刑とされ、1948(昭和23)年12月23日に刑が執行されたのです。
また1946(昭和21)年1月、GHQは日本政府に対して、公職追放を指令します。
正式には「好ましからざる人物の公職からの除去及び排除」というものですが、この指令はドイツでの非ナチス化政策をモデルにひそかに作成されたものである、とされています。
1948(昭和23)年5月までに、政界・財界・官界から言論界に至る日本人21万人が、戦時の責任を負われて職を失ったのです。
首相就任直前の鳩山一郎なども公職追放されており、実に大きな影響力をもった指令でした。
公職追放は、日本の非軍事化・民主化を目標としたアメリカの対日占領政策の一翼を担っており、その後に日本に大きな爪痕を残した政策でした。
さらには、非軍事化の観点から軍需産業の禁止や船舶保有の制限が実施されたり、日本国内の産業設備を解体・搬出して、中国・東南アジアの戦争被害国に供与する現物賠償を行うことにもなりました。
こうして日本の非軍事化が進められ、二度と日本が戦争という手段をとらないよう、日本の軍事力は解体されていったのです。
では、民主化はどのような形で進められていったのでしょうか❓
この続きは、次回にしたいと思います☻