前回の続きになります。
原爆投下の命令を下した、アメリカのトルーマン大統領の「ある明確な意図」について考える、ということでした。
この問いを考える上で、私は以下の3つの歴史事項を考慮に入れたいと思います。
①ヤルタ協定
②ハイド・パーク合意
<①ヤルタ協定>
ヤルタ協定とは、1945(昭和20)年2月4日から11日まで、ドイツの敗戦を目前にして、ソ連クリミヤ半島のヤルタで、アメリカのローズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンによる会談(ヤルタ会談)で合意された協定のことです。
ドイツの分割占領、国際連合の設置などが決定されたことのほか、「秘密協定」として、ソ連が対ドイツ戦争終了後2・3か月以内に対日参戦することが約束されたのです😲❢
その代償として、南樺太(サハリン)・千島のソ連帰属などが秘密裏に合意されました。
この秘密協定は戦後に暴露され、冷戦下の米国議会で厳しく追及されることになりました。
しかし、「秘密協定」におけるソ連の対日参戦は、アメリカ側の強い要請によるものでした。
つまり、アメリカは日本との戦争を終結させるために、ソ連の協力を必要としたのです。
そしてソ連はこのヤルタ会談で主導権を握り、自国の権益拡大のために必要とされる要求を米英に承認させたのでした。
米英(資本主義陣営)vsソ連(共産主義陣営)の対立の構図が早くも見えてきます。
ローズヴェルト大統領が急死したのち、跡を継いだのは副大統領だったトルーマンでした。
トルーマンは反ソ反共主義者として知られ、戦後社会を見据えて、ソ連の動きに警戒心を強めていくのです。
<②ハイド・パーク合意>
ハイド・パーク合意とは、1944(昭和19)年9月に、ニューヨーク州ハイドパークで行われたアメリカのローズヴェルトとイギリスのチャーチルの会談の結果調印された、原子力に関する米英協力の約束のことです。
この協定で、原爆が完成したら日本に対して使用することが決められました。
そしてさらに、米英による原爆独占の戦後継続と、それからのソ連排除を密約していたのです😲
この事実は、アメリカが第2次世界大戦後の世界平和維持について、米英両国の協調重視の立場を、ローズヴェルトの時代にすでに固めていた証拠とみなされているのです。
<③戦後の国際社会>
生徒には是非、「冷戦体制」というものを頭に思い浮かべて欲しいものです。
第2次世界大戦後、アメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国の間に生じた「戦争でもなく平和でもない対立状態」を冷戦と呼び、冷戦が進行する中で作られた世界政治の構造とシステムを冷戦体制と呼んでいます。
冷戦という言葉はアメリカのジャーナリストであったウォルター・リップマンが、1947(昭和22)年に『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙上に「Cold War」というタイトルの評論を発表したことで一般に普及します。
これが「冷戦」と訳されたのです。
そして約40年後の1989(平成元)年12月、地中海のマルタ島で、ソ連のゴルバチョフとアメリカのブッシュによる会談が持たれ、冷戦の終結が宣言されました。
冷戦終結から2年後の1991(平成3)年、ついにソ連は崩壊し、この世界からその存在が消滅したのでした。
この歴史的事実からもわかるように、アメリカとソ連は第2次世界大戦後の世界の両巨頭であり、戦争を伴わない対立を長い間続けてきたのです。
以上をまとめてみると、次のような結論に至るのではないかと思います。
アメリカは日本との戦争を終結させるべく、敵視していたもののソ連の協力を必要としていた。
そこでアメリカはヤルタ協定において、ソ連の要求を最大限承認することで、ソ連の協力を取り付けることに成功した。
しかし原子爆弾開発完成の報を受けたアメリカのトルーマンは、戦後の処理問題や国際社会でソ連よりも優位に立つため、ソ連の力を借りない形での戦争終結を迎える必要があった。
アメリカはイギリスからの合意を取り付ける形で、原子爆弾投下という方法で対日戦争を終結させ、さらにアメリカの技術力をソ連に見せつけることで、アメリカ主導の戦後社会の構築を意図した。
このように考えることができるのではないか、と思います。
原子爆弾投下という凄惨な事実は、対日戦の早期終結・アメリカ軍兵士の人命救助ということが真の目的だったのではなく、戦後社会を見据えた上でのソ連に対する牽制だった、というわけです。
歴史を学ぶことには意味があると思います。
私たち人類は、歴史から「これから」を学ぶのです。
我々教師は、歴史の重さを感じながら、日々生徒に考えさせることが大切な仕事なのではないか、と強く思っています。