「アメリカは1945(昭和20)年8月6日に広島、8月9日には長崎に原子爆弾を投下したが、なぜアメリカはこのような行動に出たのか。ポツダム会談に参加した他の国との関係性に留意しながら答えなさい。」
この問題は、ある大学の入試問題です。
実に奥の深い入試問題だと思います。
この問題を通して、アメリカが日本に原爆を投下した真の理由を、そして日本側からすれば、なぜ原爆を落とされなければならなかったのか、ということを考えることができます。
先ず、原爆を投下した理由をアメリカはどのように述べているのかを調べてみることにします。
アメリカは早期終戦・人命救助のための使用であり、原爆投下なしには対日上陸作戦で100万人を超える死傷者が出るだろうとして、この原爆投下を正当化しています。
しかし、対日攻撃担当の米国陸・海・空3軍の最高司令官(マッカーサーら)は、それぞれの軍事力による近いうちの対日終戦を見込んでいたようで、原爆投下を軍事的に必要としていなかったとされています。
原爆投下はポツダム会談中に、アメリカの政治指導者により決断されたもので、このような原爆投下のなされ方は、真の目的が、単純な早期終戦・人命救助のためでは決してなかったことを示していると考えられているのです。
ここでは、森武麿『日本の歴史⑳アジア・太平洋戦争』集英社 1993年
などを参考に、原爆投下の真の目的を考えていきたいと思います。
問題文には、ポツダム会談に参加した他の国との関係性に留意しながらという条件がついています。
ポツダム会談とは、1945(昭和20)年7月17日から8月2日にかけて、ドイツのベルリン郊外ポツダムで開催された連合国戦争指導会議のことです。
参加者は、アメリカのトルーマン、ソ連のスターリン、イギリスのチャーチル(チャーチルは総選挙に敗れ、途中アトリーと交代)で、この会談で日本に対する即時無条件降伏要求が決定されます。
そして、この対日無条件降伏勧告宣言が、アメリカ・イギリス・中華民国の3国首脳の連名で出されることになります。
ここで注意しなければならない事は、ポツダム会談にはソ連が参加しているにもかかわらず、ポツダム宣言にはソ連ではなく中華民国が名を連ねていることです。
ここは入試でも取り上げられる所ですので、しっかりとした理解が必要です☻
日本はソ連と1941(昭和16)年4月に、「日ソ中立条約」を締結しています。
有効期限は5年となっていました。
ポツダム宣言が出された1945(昭和20)年7月26日の時点においては、この日ソ中立条約が有効でしたので、日本とソ連は交戦状態にはなかったため、ポツダム宣言にはソ連の名がないのです。
ポツダム会談に参加した、アメリカ・イギリス・ソ連の関係性を考えていく前に、原子爆弾はどのような経緯で開発が進められたのかを見てみたいと思います。
歴史辞典などを調べると、次のように説明されています。
第二次世界大戦の開戦前に、ナチスの圧迫を避けてアメリカに亡命した原子物理学者は、ドイツによる原爆開発着手か、との情報を学者仲間から入手します。
彼らは原爆によるナチスの世界制覇の実現を恐れて、アインシュタインを介してアメリカのローズヴェルト大統領に原爆開発を持ちかけるのです。
原爆開発計画(マンハッタン計画という)は、ミッドウェー海戦後の1942(昭和17)年9月に始まり、ポツダム会談の1日前【1945(昭和20)年7月16日】に完成します。
そして、ポツダム宣言が出される1日前の1945(昭和20)年7月25日に原爆投下命令が下され、それに基づき8月6日に広島、8月9日には長崎にそれぞれ原爆が投下されたのでした。
この原爆投下の決断を下したのは、アメリカのトルーマン大統領でした。
トルーマンは、「ある明確な意図」に従ってこの決断を下します。
トルーマン大統領ら、政治指導者の意図とは一体何だったのでしょうか❓
この続きは次回にしたいと思います。