今回は、「征韓論(せいかんろん)」について考えてみたいと思います。

 

 

 

征韓論とは、幕末維新期の「朝鮮制覇論」のことです。

 

 

特に1873(明治6)年10月の政変(明治6年の政変)における西郷隆盛板垣退助ら当時の留守政府のメンバーの主張を指します。

 

 

留守政府とは、特命全権大使であった岩倉具視を中心とした岩倉遣外使節団1871年11月~1873年9月)が欧米歴訪中に、その留守を守るために組織された国内体制のことです。

 

 

 

近世(主として江戸時代)における日本の朝鮮観は、朝鮮の文化や学問に畏敬の念を持っていましたが、その一方で、日本の建国神話や伝説に根ざす優越意識があったと言われています。

 

 

つまり、日本の天皇は初代の神武天皇以来途絶えることなく続いた皇統であり、神の子孫である天皇が統治した神国であることの優越感。

 

 

伝説とは、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后である神功(じんぐう)皇后が、新羅(しらぎ)出兵を行い、新羅を討伐した後、百済(くだら)・高句麗(こうくり)も相次いで日本の支配下に組み込んだ、三韓征伐(さんかんせいばつ)のことで、朝鮮半島はもともと日本の支配下である、という意識が日本人にはあるのです。

 

 

そして幕末に国学(こくがく:日本固有の精神を明らかにしようとした学問)が普及したことで、日本人の優位性が強調され、朝鮮を含む外国を蔑視する風潮が強まりました。

 

 

これが攘夷(じょうい)になるわけです。

 

 

維新の三傑」として知られる木戸孝允なども、朝鮮制覇は日本の国家統一の基礎であると考えていたようです。

 

 

 

高等学校で使用する日本史教科書にも記載されていますが、明治新政府は発足とともに朝鮮に国交樹立を求めます。

 

 

しかし、当時鎖国政策を採用していた朝鮮は、日本の交渉態度を不満として交渉には応じませんでした。

 

 

 

このあたりの事情を、中谷哲『日本の歴史⑯明治維新』集英社 1992年」を参照してみると、次のように説明されています。

 

 

 

明治新政府は、対馬藩に命じて、国交再開を望む旨の文書を朝鮮政府に送らせます。

 

 

なぜ対馬藩を通した交渉だったのかと言うと、対馬藩は中世以来、宗氏(そうし)が朝鮮王朝から認められた貿易権を背景に、江戸幕府から朝鮮との交渉の窓口と位置づけられ、朝鮮貿易を独占していた歴史を持っていたからです。

 

 

対馬藩を通して朝鮮政府に送られた文書には、「皇」「奉勅」などの文字が使用されており、旧来のものと異なるという理由で、受理を拒否するという通告が朝鮮政府からなされます。

 

 

 

当時朝鮮は、中国を宗主国とする朝貢・冊封関係を持っていました。

 

 

朝鮮という国号も、朝鮮国王の使節が中国皇帝に朝貢し、国号を承認してもらったからこそ使用することができたのです。

 

 

朝貢・冊封体制は、上下関係と言い換えても決して過言ではありませんでした。

 

 

中国を上位としている以上、「皇」「勅」などの使用は、日本の天皇を皇帝として朝鮮国王の上位に置くものと受け取られました。

 

 

朝鮮政府にとって上位は中国だけです。

 

 

日本を朝鮮政府の上位に置くことは、到底認められない状況でした。

 

 

 

1873(明治6)年5月、朝鮮政府が明治新政府に対して、朝鮮が日本人使客接待のために置いた施設である「倭館(わかん)」に、従来から認められている対馬商人以外の商人が出入りしていることを咎めます。

 

 

さらに外務省の派遣員が洋服を着ていることをとらえ、日本が欧米の風に染まったとして、日本を激しく非難しています。

 

 

 

これを契機に朝鮮問題が沸き起こり、武力を背景に朝鮮を開国させる征韓論が高まることになります。

 

 

 

岩倉遣外使節団の帰国以前に、留守政府西郷隆盛の遣韓使節派遣を内定し、岩倉具視らの帰国を待って正式決定することになっていました。

 

 

 

ここで、ある大学の入試問題を参考に「征韓論」を深めます。

 

 

 

西郷隆盛や板垣退助らが主張した征韓論の狙いについて答えなさい。」

 

 

実は木戸孝允が述べるような、朝鮮を開国することが日本の国家統一の基礎という考えとは異なる視点から、西郷隆盛板垣退助征韓論を主張していたのです。

 

 

皆さんには、西郷隆盛の真の狙いが分かりますか

 

 

この続きは次回にしたいと思います。

 

 

是非、考えてみて下さい