前回の続きになります。

 

 

なぜ、国司とともに民衆支配にあたるはずの郡司が、有力百姓らとともに国司を朝廷に訴えたのかということでした。

 

 

 

10世紀という時代は、時代の大きな転換期である、というお話をしました。

 

 

農民による納税拒否によって、国家財政は危機的状況に陥ることになりました。

 

 

そこで、朝廷は国司に地方を治める地方官としての役割ではなく、徴税請負人としての役割を期待したのです。

 

 

 

国司は終身世襲の郡司とは異なり、「4年という期間付き」で地方に派遣されています。

 

 

国司貴族ではありましたが、中央政界では下級貴族であったため、中央政界での出世はかなり厳しい立場にありました😓

 

 

ですから国司は、私財を出して朝廷儀式の運営や寺社の造営などを積極的に請け負い、その代償として官職に任命してもらう「成功(じょうごう)」や、同様にして収入の多い官職に再任してもらう「重任(ちょうにん)」といった当時のシステムを最大限活用します。

 

 

中央での出世が望めない下級貴族は、国司として地方へ下り、「4年という短い期間」の中で巨利を貪(むさぼ)り、稼いだ私財を朝廷に献上することで、再び国司に任命されることを願ったのです。

 

 

国司の最高責任者である受領は、これまで郡司が担当してきた税の徴収・文書作成などの仕事を奪い、受領以外の国司を実務から排除し、郡司や自らが率いてきた郎等(ろうとう:従者のこと)を指揮することで徴税を実現しました。

 

 

 

こうして郡司国司の手足となって、徴税を代行させられたのでした。

 

 

 

郡司らに告発された藤原元命なども、子供の藤原頼方(よりかた)など郎等を使い、田堵から強引な収奪を行い、私的利益を追求していたとされています。

 

 

土地税を高めに設定したり、下級国司の給料を支給しないなど、現代ではとても考えられないような行動に出ています😨

 

 

 

国司は4年という期間の中で、いかに稼ぐかを考えます。

 

 

当然ですが、徴税方法もかなり手荒なものになってしまうわけです😨

 

 

 

国司への納税を行った有力百姓は、当時田堵(たと)と呼ばれた農業経営者でした。

 

 

受領はこの田堵と呼ばれた有力農民と契約を結び、土地を耕作させて税を徴収していました。

 

 

 

徴税は国司本人ではなく、郡司国司の郎等が担当します。

 

 

郡司は終身世襲の地方官とされていますが、その内実を見ると、郡司候補者は多数存在し、郡司の地位をめぐる競争が激化します。

 

 

郡司選考権は国司が掌握していたので、郡司国司の歓心を買うべく努力することになります。

 

 

郡司の立場からすれば、多少強引ではあっても、徴税を実現し多くの税を国司に納入することが、自らの立場の安定につながるのです。

 

 

 

朧谷寿『日本の歴史⑥王朝と貴族』集英社 1991

佐々木恵介『日本史リブレット12 受領と地方社会』山川出版社 2004

 

などを参考に、もう少し歴史を深めてみたいと思います。

 

 

 

郡司の任用には、まず国司が候補者を選定し、候補者は上京して式部省(しきぶしょう)の審査を受けるという二段階の手続きが必要でした。

 

 

しかし9世紀前半になると、郡司の選考は国司に委ねられるようになり、国司は正式な郡司の任用手続きに入る前に、候補者を3年間雑務に試用することが可能となります。

 

 

 

こうして郡司国司の部下として、徴税などの実務を忠実に行うことができる能力が重視されるようになったのです。

 

 

 

繰り返しになりますが、国司は4年という任期で巨利を得ようとします。

 

 

訴えられた藤原元命などは、普段は平安京内の自邸にいて、農繁期になると任国に赴いて農事の妨げをしていたようです。

 

 

そればかりか任期中に搾り取った米や財宝を、折を見ては郡司や有力百姓である田堵に低賃金で自邸に運ばせています。

 

 

 

郡司はその地方に住んでいる現地採用の地方官です。

 

 

国司などとは異なり、その地方の実情に詳しく、郡内における治安維持等に大きな役割を果たしていたはずです。

 

 

その郡司国司の手足となって働かされ、従属することに大きな不満😠を持っていたのです。

 

 

 

田堵についても、農繁期の忙しい時に国司からの妨害を受けるなどの非道に大きな不満😠を持っていたはずです。

 

 

 

このような状況下にあった郡司田堵は、一致団結して受領に対抗し、藤原元命の罷免を求めて朝廷に訴えたのでした。

 

 

 

現代にも通じるような話ですね…😅

 

 

1つの教訓にしたいような歴史的事実でした。

 

 

歴史は、今を生きる子供達にとって、学ぶ価値のある学問である、と私は思っています。