今回は、幕末の攘夷(じょうい)運動について考えてみたいと思います。
「攘夷論」という考え方があります。
この考え方は、自国が世界の文化・政治の中心であり、他に優越しているという意識である中華思想に基づいて、他国を野蛮な「夷狄(いてき)」とみなして排撃する主張です。
夷狄とは、古代中国で中華に対して四方に居住していた異民族に対する蔑称で、外国人を軽蔑したり、敵意をもって呼ぶときに使われます。
日本の場合、自己を中華とみなす論拠は、「万世一系の皇統」という信仰に基づいています。
つまり、日本の皇室は一度も断絶せず、一貫して日本を統治してきたという考え方が、日本の中華思想を形成しているのです。
『古事記』・『日本書紀』には、日本神話に関する記述があります。
『記紀』神話の最高神で、太陽の女神である「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の孫である「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」のひ孫にあたるのが、初代天皇の神武(じんむ)天皇です。
天照大神→子→瓊瓊杵尊→子→子→神武天皇
この初代天皇である神武天皇から一切の断絶もなく、皇室が継続しているという考え方が、日本の国体(こくたい:天皇を中心とする国家体制のこと)の基盤となっています。
日本では他国(特に、前近代史においては中国のこと)のような、革命による王朝の変更などが一切なく、脈々と神武天皇から現在の天皇まで続いている。
このような思想が、日本が世界の中心であるとする中華意識を浸透させる基礎となったのです。
また、攘夷論の形成には「国学(こくがく)」という学問が深く影響しています。
国学とは、江戸中期に興り、儒学や洋学(西洋の学問)に対して、日本の古典を研究し、日本固有の精神を明らかにしようとした学問のことです。
『万葉集』や『古事記』などの研究が有名で、特に伊勢(現在の三重県)松坂の商家に生まれた本居宣長(もとおり のりなが)は、『古事記』の研究に没頭して『古事記伝』を著しています。
国学者は、外来の思想(儒教・仏教・洋学)の一切を排除し、自国の伝統的要素を最も優れたものと考えました。
こうして幕末期には、日本は万世一系の皇統を象徴する天皇に対する絶対的尊崇を主張する「尊王論」と、日本を中華とし他国を野蛮な民族とみなす「攘夷論」とが合体し、「尊王攘夷論」が形成されたのです。
1860(万延元)年、日米和親条約により1856(安政3)年に下田駐在の初代アメリカ総領事として来日したハリスの通訳であった、オランダ人のヒュースケンが江戸で薩摩藩士に斬殺される事件が発生します。
1861(文久元)年、イギリス仮公使館となった江戸高輪(たかなわ)の東禅寺を、水戸脱藩士十数名が襲撃しています。この事件は、幕府が負傷者に賠償金を支払い、各国公使館を建設することを約束して解決しました。
1862(文久2)年、品川御殿山(ごてんやま)に建設中の各国公使館を襲撃し、全焼させる事件が起こっています。
この事件は、長州藩士であった高杉晋作や伊藤博文によって起こされたものでした。
このような激しいまでの攘夷行動に対して、幕府は有効な対策をとることができませんでした😓
国内の排外気運の盛り上がりと、各国からの外圧との板挟みに苦しみ、幕府は統治能力を低下させていくことになります。
しかし、なぜここまで激しい攘夷行動が起こることになったのでしょうか❓
中華思想による「夷狄(いてき)」排除意識に基づくだけの行動だったのでしょうか❓
ここは是非、授業では掘り下げたいところです😊
1860(万延元)年と言えば、江戸幕府大老の井伊直弼が、江戸城桜田門外で暗殺される歴史的事件が起こった年です。
世に言う、桜田門外の変です。
井伊直弼はなぜ殺されたのでしょうか❓
井伊直弼の暗殺と、攘夷運動の激化には深い関係があります。
皆さんはどのように考えますか❓
続きは次回にしたいと思います。