今回は、「日中戦争」について考えてみたいと思います。
この日中戦争について、歴史辞典には次のような記述があります。
「日本の中国に対する全面的侵略戦争。当初、日本政府は北支事変(ほくしじへん)と呼び、後に支那事変(しなじへん)と改称、第2次世界大戦後には日華事変(にっかじへん)と呼ばれるが、現在は日中戦争の呼称が主流となっている。」と。
「支那」とは、中国のことを示しています。
国語辞典には、中国の王朝名の「秦(しん)」が音変化したものと記述されています。
ここで生徒に注目させたいのは、日中戦争が明らかな戦争であったにもかかわらず、なぜ「戦争」ではなく、「事変」とされたのか❓
ということです。
「事変」とは、宣戦布告なしに行われる国際間の武力行為のことです。
なぜこの戦争では、宣戦布告がなされなかったのか❓
この事実を、授業では是非問いたいところです。
先ず、日中戦争の発端となった事件を簡潔に説明したいと思います。
1937(昭和12)年7月7日、北平(ペイピン)(=北京)西南郊外の永定河(えいていが)にかかる盧溝橋(ろこうきょう)付近で演習中の支那駐屯軍の一部隊に対し、中国第二九軍側からの銃撃があったことが発端となっています。
日本軍側に損害はなかったものの、翌8日、日本軍は中国軍に対する攻撃を開始します。
この日中両軍の衝突事件を、「盧溝橋事件」といいます。
ちなみに、この盧溝橋という橋は、マルコ・ポーロが著書『東方見聞録』で紹介していることから、「マルコ・ポーロブリッジ」とも呼ばれています😊
ここで生徒に問いたいことがあります。
それは、なぜ盧溝橋付近に日本軍がいたのか❓ということです。
この問いは、ある難関大学の入試問題でもありました😅
この問題を考えるためには、北清事変(ほくしんじへん)に触れなければなりません。
1899(明治32)年から1900(明治33)年にかけて、華北(中国北部)の民間秘密宗教団体であった「義和団(ぎわだん)」が、「扶清滅洋(ふしんめつよう)=清朝を助けて列強を滅ぼす」を掲げて、キリスト教教会、外国商社を襲い、列国公使館を包囲します。
この頃の清(中国)は、欧米列強によって半植民地化の状態にありました。
欧米列強の排除を叫ぶ義和団を利用して、欧米列強を牽制(けんせい)しようとする清朝政府は、義和団を支持する姿勢を見せます。
しかし1900(明治33)年、日本・ロシア・イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・アメリカの8カ国が共同出兵し、のちに清朝も義和団を弾圧する方向へと方針を転換します。
この義和団の動きを鎮圧するための戦いを、北清事変と呼んでいます。
そして、清(中国)と欧米列強の間で結ばれた、義和団事件に関する最終議定書を「北京議定書」といいます。
義和団事件における被害に対する巨額の賠償金💸の支払いと、北京にある公使館守備隊の駐留などを清(中国)に承認させたのです。
ですから❢
北京郊外にある盧溝橋に日本軍がいたのです❢
1901(明治34)年に結ばれた「北京議定書」に基づいて北京常駐が公式に承認された日本軍が、日中戦争の発端をつくってしまうのです😨
しかし、日本のみならず中国までもが、正式に宣戦布告を行わないままで戦いを継続することになります。
そこにはどのような思惑があったのでしょうか❓
実は、そこにアメリカが大きく関係しています。
次回は、日・中・米の関係性から、なぜ各国は「正式な戦争」にしたくはなかったのか、を考えてみたいと思います。