今回は、「義務教育期間における授業料の無償化」について考えてみたいと思います。
ちなみに、このお話は戦後(第二次世界大戦後)のことではなく、戦前のお話になります。
以前、ある難関大学の入試問題で、次のような問いがありました。
「1900(明治33)年、教育基金が設けられ義務教育の充実が図られたが、基金設立当初の財源は何か❓」
この問題を考えるにあたり、先ず「教育の歴史」を見てみたいと思います😊
1871(明治4)年、文部省が設置されます。
言うまでもなく、教育・学術・文化に関する中央行政機関です。
2001(平成13)年に、科学技術庁と統合されて文部科学省となりました。
そして、1872(明治5)年、フランスの学校制度にならった「学制」が公布されます。
しかし、現実とかけ離れて当時の国民生活にあわなかったため、1879(明治12)年に「教育令」によって改められています。
この「教育令」はアメリカの制度を参考にしたもので、教育に関する管理を地方に移管し、就学義務も実質16ヵ月という短さでした。
しかし、教育を地方に任せるこの政策はすぐに改められ、小学校教育に対する政府の監督責任が強調されるようになります。
近代的教育制度の導入の目的は、高等学校で使用する日本史の教科書に記述されている通り、
「政府は、国民各自が身を立て、智を開き、産をつくるための学問の重要性を説き、小学校教育の普及に力を入れ、男女に等しく学ばせる国民皆学教育の建設を目指した。」というものでした。
この明治政府の考え方は、実に正しいものであると思われます。
しかし❢
この「学制」に対して、農民達は「学制反対一揆」を起こすのです😲
なぜなのか、わかりますか😅❓❓
歴史辞典などには、次のような記述があります。
「学制は農民に過重な負担を強いるものであった。学校費の負担は過重であったし、児童の強制的登校は労働徴発的な意味を持った。こうした負担に反対して、学制反対一揆は、学校費の引下げ、小学校廃止などを要求し、小学校の打ちこわしなどとなって展開した。」と。
つまり教育費の負担が大きく、さらに農村において重要な労働力であった子供達を学校に奪われてしまうことには、多くの反発があったわけです😢
1886(明治19)年に公布された『小学校令』は、尋常科・高等科・簡易科(1890年廃止)を設置するとともに、尋常科への就学義務を課します。
1890(明治23)年に改正された『小学校令』では、尋常小学校3年あるいは4年の義務教育が明確化されます。
1900(明治33)年の『改正小学校令』で、尋常小学校の修業年限を4年に統一し、1907(明治40)年には尋常小学校6年間の義務教育が確立し、第二次世界大戦前の教育制度が完成します。
教育制度を順次整えていった明治政府の課題は、義務教育における就学率の向上にありました。
教科書には、就学率に関するグラフが記載されています。
それを見ると、1892(明治25)年の就学率は「男子70%・女子36%」とあります。
この数字からは、女子教育に対する当時の考え方が伝わってきます😓
1902(明治35)年、就学率は男女平均90%を超えます。
わずか10年でここまで就学率が伸びた背景には、「義務教育期間の授業料廃止」が深く関係しています。
財源に乏しかったと考えられる明治政府は、どのようにして義務教育期間の授業料廃止に必要とされる財源を確保したのでしょうか❓
ここで注目したいのは、1900(明治33)年という年代です。
読者の皆さんには、どのような歴史事項が思い浮かびますか❓
是非考えてみて下さい。
この続きは、次回にしたいと思います。