本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。
防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。
高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。
「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」
ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓
ということです。
この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊
先ず、東国について説明します。
歴史辞典などには、次のような記述があります。
東国という言葉には、3つの用例が存在します。
授業では、必ず地図を用意させて場所を確認させることが大切です。
①「三関(さんげん)以東の地である関東」のこと
三関とは、
鈴鹿(すずか:三重県)・不破(ふわ:岐阜県)・愛発(あらち:福井県)の3つの関所のことを言います。
律令国家が最も重視した関所でした。
天皇の死去や反乱など中央政界での緊急時には、関所を閉ざす固関使(こげんし)が派遣されました。
②「足柄(あしがら)・碓氷(うすい)両坂以東の地である坂東(ばんどう)」のこと
足柄は、静岡県と神奈川県の県境にあります。
県境には峠があり、ここを足柄峠と呼んでいます。
かつてこの地は、足柄坂と呼ばれ、坂東の入り口でした。
碓氷は、群馬県と長野県の県境にあります。
県境には峠があり、ここを碓氷峠と呼んでいます。
かつてこの地は、碓氷坂と呼ばれ、坂東の入り口でした。
③「遠江(とおとうみ)・信濃(しなの)以東の地」のこと
遠江は、現在の静岡県です。
そして、信濃は現在の長野県になります。
時代は下りますが、東国に誕生した政権である鎌倉幕府が支配する東国の範囲は、遠江・信濃以東の国々とされました。
この①~③の中で、③が最も一般的な東国の範囲を指していたと言われています。
そして、この東国がヤマト政権(律令国家成立以前の大和を中心とした政治権力)の重要な武力基盤として存在していました。
古代史における最大の皇位継承戦争と呼ばれる「壬申の乱」(672年)で勝利を収めた大海人皇子(おおあまのみこ:のちの天武天皇)や、奈良時代に孝謙太上天皇から寵愛を受けた僧道鏡と対立した藤原仲麻呂が乱を起こす(764年)のですが、この藤原仲麻呂も東国を目指しています。
ちなみに藤原仲麻呂とは、大化改新で中大兄皇子(なかのおおえのみこ:のちの天智天皇)らとともに活躍した中臣(藤原)鎌足のひ孫にあたる人物で、奈良時代の貴族です。
中臣(藤原)鎌足
┃子
藤原不比等(ふひと)
┃子
藤原武智麻呂(むちまろ)
┃子
藤原仲麻呂(なかまろ)
このことについては、日本史の考え方「関所:古代史編」でも、少し触れています☻
律令国家が完成した8世紀にあっても、東国の軍事的影響力は残っていたわけです。
ですから、ヤマト政権を継承した律令国家は、武力基盤としての東国から、北九州の防備にあたる重要な戦力である兵士を採用したのです。
しかし、防人が主として東国の兵士だった理由は、まだ他にも考えられます。
授業では、なぜ西国の兵士を防人に採用することができなかったのか❓
この視点で考えさせることが大切であると思います。
是非、読者の皆さんも考えてみて下さい。
この続きは、次回にしたいと思います。