前回の続きになります。
明治政府の不平等条約改正の動きと、西洋画科が除外された東京美術学校の設立には、どのような関わりがあるのか❓
ということでした。
西洋画科が除外された理由について、教科書には次のように書かれてあります。
「当時、ヨーロッパにおいて日本画が高い評価を受けていたことも一因としてあった。」と。
この「も」という一語が重要です。
確かに、当時のヨーロッパで、日本画が高い評価を受けていた、ということがあったことは事実だが、それだけではない。という文脈です。
突然ですが❢
「三大事件建白運動」を知っていますか❓
1887(明治20)年に起こった自由民権運動の最後を飾る反政府運動のことです。
自由民権運動とは、旧薩摩藩(鹿児島県)・旧長州藩(山口県)出身者によって占められた明治政府に対して、憲法に基づいた政治の実現を要求した民主主義運動のことを言います。
井上馨(かおる)外務大臣が進めた条約改正案には、国家主権を侵害する重大な内容が含まれていました。
①外国人に内地を開放する(内地雑居)
②外国人裁判官を任用する
これらの条件に対して、国内で大きな批判があったことについては教科書にも記述があります。
1887(明治20)年10月、高知県の自由民権運動家であった片岡健吉は、「三大事件建白書」を政府に提出しています。
片岡健吉とは、板垣退助(たいすけ)らとともに自由民権運動で活躍した人物です。
のち同志社(現:同志社大学)の校長にも就任しています。
「三大事件」とは、3つの大きな事件が起こった😨❢❓
ということではなく、政府に要求した3つの内容、という意味のことです。
その内容とは、
①地租軽減(土地を課税物件とする租税である「地租」の軽減をはかる)
②言論・集会の自由
③外交失策の挽回
条約改正を成功させるためとは言え、明らかに極端すぎる欧米への迎合(げいごう)とも受け取られる井上馨外務大臣の方針は、外交失策の挽回という形で政府に要求されたのでした。
つまり、条約改正のために国家を売り渡すような政府の方針に「NO❢」が出されたわけです。
鹿鳴館外交などと呼ばれた極端すぎる欧化主義に強く反発し、日本古来の伝統を重んじる風潮が現れてくることになります。
1887(明治20)年、評論家として名高い徳富蘇峰(とくとみ そほう)が、言論団体「民友社(みんゆうしゃ)」を設立し、雑誌『国民之友(こくみんのとも)』を創刊します。
徳富蘇峰は、明治政府が推進する極端な欧化主義を批判し、「平民的欧化主義」を掲げました。
「平民的欧化主義」とは、政府主導の「上から」の欧化主義ではなく、西洋文明で必要とされるものをよく調べてから積極的に摂取することで生活の向上を図るとする「下から」の欧化主義を主張したものです。
欧化主義という観点では、政府と同様と言えるかも知れませんが、無批判の欧化主義は徹底して批判していました。
1888(明治21)年、こちらも評論家として名高い三宅雪嶺(みやけ せつれい)が、「政教社」という団体を結成し、雑誌『日本人』を創刊しています。
三宅雪嶺は、欧米文化の無批判的な導入に反対して「国粋保存主義(こくすいほぞんしゅぎ)」を提唱しました。
「国粋保存主義」とは、自国の文化の優位性を強調し、日本国の伝統を重視する、という考え方です。
A)三大事件建白運動
B)平民的欧化主義
C)国粋保存主義
これらに共通するのは、政府が主導する「無批判な欧米迎合型」の政策を批判したものでした。
このような動きの中に東京美術学校の設立がある、ということに注目しなければなりません。
授業で以上のように展開してくれば、生徒も気づくはずです。
つまり❢
政府が主導する極端な欧化主義に反発して、日本の伝統文化を重視する動きが民間で起こされた。
そのような中で設立された東京美術学校は、日本の伝統を重視する日本画科が設置されたのに対し、西洋文明としての西洋画科を意図的に除外した。
という流れになるわけです。
のち、西洋文明へのアレルギーのような抵抗が薄れ、東京美術学校にも西洋画科が設置されるようになります。
このような問いを考えることは、歴史の流れをとらえ、思考力を鍛えることに有益です。
これからの大学入試問題は、分析力・思考力・論述力が問われます。
歴史は過去を学ぶ学問ですが、同時に今を学び、未来を映し出しているのです。