皆さんは、「東京美術学校」を知っていますか❔
現在の「東京藝術大学」になります。
東京美術学校は1887(明治20)年に、フェノロサ・岡倉天心(おかくら てんしん)らが準備を進め設立した美術教育機関です。
フェノロサは、米国人の哲学者・東洋美術研究家です。
明治初期、東京大学で哲学を講じました。
日本画復興運動の推進者として知られています。
岡倉天心は、明治期の美術指導者です。
フェノロサとともに、日本の美術界を支える人材を育成しました。
岡倉天心は『茶の本』という世界的にも有名な本を書いています。
この東京美術学校に関して、高等学校で使用する教科書には次のような興味深い記述があります。
「アメリカ人のフェノロサや岡倉天心の影響のもとに、1887(明治20)年には西洋美術を除外した東京美術学校が設立された。」と。
以前、この西洋美術を除外したというところに関連した、大学入試問題がありました。
なぜ、東京美術学校は創立当初、西洋美術が除外されていたのでしょうか😲❓
東京美術学校には当初、日本画科・木彫科・彫金科・漆工科が設置されました。
1896(明治29)年、東京美術学校に西洋画科が新設され、黒田清輝が指導にあたりました。
上の写真を見たことがありますか❓
東京国立博物館に所蔵されている、黒田清輝の『読書』です。
黒田清輝は日本を代表する西洋画家の一人です。
西洋画科が除外された東京美術学校が設立されたのが、1887(明治20)年であったというところが重要になります。
高等学校で使用する日本史の教科書は、「政治」「外交」「文化」など、それぞれ分かれて記述されています。
実はそこが問題なのです。
高校生は教科書通りに学習を進めます。
「政治は政治」「文化は文化」で覚えてしまうと、相互の関連性に気付かず、歴史の学習を終えてしまうことになってしまいます😞
これらは全て有機的につながっているのです。
1887(明治20)年の、日本の政治状況について考えてみます。
この時の日本政府は、条約改正問題に取り組んでいました。
第一次伊藤博文内閣の外務大臣であった井上馨(かおる)が、欧米列強との条約改正交渉に奮闘していました。
幕末に欧米列強と結んだ不平等条約(治外法権の承認・関税自主権の欠如)を改正することは、日本国家にとってまさに悲願でした。
ですから明治政府は、外国人の歓心を買うため、「鹿鳴館(ろくめいかん)」を作り、ここで催される舞踏会に外国外交官らを招待するなどの欧化主義をとったのです。
日本側が提示した条約改正案には、
①日本国内を外国人に開放する(内地雑居という)
*内地雑居に関しては、最後まで問題になるのですが、詳しくはまた別の機会にします。
②外国人を被告とする裁判には、半数以上の外国人裁判官を採用する。
という条件を認める内容があり、これらの条件は国家主権の侵害であるという猛烈な批判が国内で起こったのです😲
この明治政府の方針への抵抗と、西洋画科が除外された東京美術学校の設立には、どのような関わりがあるのでしょうか❓
この続きは、次回にしたいと思います。
皆さんも是非考えてみて下さい😊