今回は、「近世と近代における軍事制度」について考えてみたいと思います。
以前ある大学の入試問題で、次のような出題がありました。
「江戸時代の軍事制度と近代の軍事制度の違い」について説明しなさい。
この問題はどのように考えるべきなのでしょうか❓
ここでは、高等学校で使用する教科書並びに、
「野島博之 『謎とき日本近現代史』 講談社現代新書 1998年」
を参考に、思考を深めていきたいと思います。
先ず、江戸時代の軍事制度について考えてみます。
次に掲げる写真をご覧下さい。
この写真は教科書等に載せられている写真で、「四国艦隊による下関砲台の占領」の写真です。
1864(元治元)年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国の連合艦隊が、下関の砲台を攻撃しました。
私は大学3年生の時のゼミナールで、先生から次のように質問されたのを今でも覚えています😊
「この写真を見て、どういうことが言えると思いますか?」と。
皆さんはどう思いますか❔❔
ゼミナールの先生が言うには、
「この写真は外国人が下関を制圧した際の記念撮影です。当時のカメラは今のカメラと違って、撮影時にしばらく動かずじっとしていなければならなかった。途中で動いてしまえば像が乱れたのです。この写真で外国人はカメラの方を見てじっとしていますよね。長州藩の藩士が襲ってきてもよさそうですが、それがない。それほどまでに長州藩は完敗してしまったことがわかるのです。」と。
なるほど…。
そのようにこの写真を見るわけですね😅
話がそれてしまいましたが、江戸幕府が唯一経験した本格的な戦争である「島原の乱」(1637年~38年)以来、200年間以上も本格的な戦争を経験していない武士は、もはや戦力として機能してはいなかったのです。
このことは、長州藩の武士も同様でした。
江戸時代、武士は全人口の6~7%程度であった、とされています。
この武士が、江戸時代唯一の戦士であったわけです。
しかしこの戦力は、全国で連携がとられ、「日本国」としての戦力になっていたわけではありませんでした。
そもそも、江戸時代には外敵の侵入が想定されていたわけではなく、「日本国」として軍隊を整備するという発想がなかったのです。
諸藩もそれぞれ独立した存在であったため、諸藩同士の軍事的連携をはかることはありませんでした。
江戸幕府が「近代軍隊」を意識したのは幕末です。
幕府はフランスの財政的・軍事的援助を受けています。
ですから江戸時代唯一の戦力であった「武士」も、平和な時代にあっては、戦力というよりも1つの身分として存在していたのです。
平和な江戸時代の武士は、原則として人を殺しません。
幕府や藩に仕え、役人として事務仕事などに従事していました。
江戸時代の軍事制度は、「諸外国と戦う」ためのシステムではなく、石高や家禄(給与のこと)に応じて、幕府や藩に奉仕するものとして制度化されていました。
例えば、
諸藩であれば、参勤交代の際に藩主のお供をする。
幕臣であれば、将軍が日光社参(将軍自ら日光東照宮に参詣する)を行う際に随行する。
このような行事は、主従関係を確認する重要な場となります。
このような軍役負担を果たすことこそが、江戸時代の軍事制度であったわけです。
しかし❢
近代という時代に入ると、このシステムでは「対外戦争」に対応することができません。
近代国家としての明治政府は、どのような軍事制度を構築する必要性を感じたのでしょうか❓
このお話の続きは、次回にしたいと思います。