前回のお話の続きになります。
今回はようやく、「平城京」についてです。
平城京は、東西4.3㎞・南北4.8㎞の長方形の京域を持つ都です。
708(和銅元)年、元明(げんめい)天皇は、藤原京からの遷都を実行するための詔(みことのり:天皇の命令のこと)を出します。
平城京が造営された地は、奈良盆地の北端にあり、東西北の三方に山があり、南は平地で開けていました。
「天子南面(てんしなんめん)」
という考え方があります。
これは中国の思想で、「中国の皇帝は北に居て臣下に南面する」という意味です。
要するに、皇帝は、京の北端に居て南を見ている、ということです。
改めて平城京の図をご覧ください(「藤原京と平城京」を参照)
平城京の北端に、小さな正方形で囲まれた領域があるのがわかります。
これが「平城宮(へいじょうきゅう)」です。
日本国の天皇は、この平城宮で生活し、南を見ているわけです。
つまり、中国の思想を都作りに取り入れているのです。
ですから平城京は、唐の長安城をお手本としており、藤原京とは全く異なっていることが分かると思います。
702(大宝2)年に派遣された遣唐使が、実際に見てきた長安城の情報も参考にされたものと考えられます。
つまり❢
藤原京が日本の独自性を強く打ち出しているのに対して、平城京は明らかに唐に近づこうとしているのです。
さらに、元明天皇の時代に発行された貨幣についても注目します。
「和同開珎(わどうかいちん)」と呼ばれる貨幣です。
この貨幣は、中国の唐の貨幣である「開元通宝(かいげんつうほう)」をそのままお手本として鋳造されています。
上記の写真からも分かるように、「和同開珎」も「開元通宝」と同様に、4文字が銭に刻まれています。
これまでの説明で分かる通り、
「藤原京と富本銭」が日本の独自性を打ち出しているのに対して、「平城京と和同開珎」は中国(唐)に近づこうとしている。
8世紀の日本は、中国に朝貢してはいましたが、称号を受け取ることを拒否していました。
これに対して朝鮮半島の国々は、中国と陸続きという地理的条件もあって、中国に朝貢して称号を受け取っていました。
日本は中国と海を挟むという地理的条件もあって、称号の受け取りを拒否し、中国と実に微妙な関係性を構築していました。
しかし❢
「約20年に1度の朝貢を実施する」という約束が、中国と日本の間で取り交わされていた、とされています。
日本にとって中国は「大国」です。
東アジアにおける中国の権威は絶大なもので、日本がいつまでも独自性を打ち出し続けることは難しかったのです😲
中国とはある程度距離を保ちながらも、中国の文化を積極的に輸入し、日本国の発展に役立てる。
このような道を、奈良時代の日本国は選択することになったのです。
歴史は実に面白い学問です☻
思考を深めてくれます。
特に中学生・高校生には、授業を通して考えを深めさせたいものです。