前回のお話の続きになります。
「藤原京以前の都と藤原京の決定的な違い」について考える、というものでした。
突然ですが、質問です❢
天武天皇・持統天皇の時代~平城京の時代を授業で扱う際に、私が必ず高校生にする質問があります。
それは、
「皆さんは、貴族と豪族、なるとしたらどちらがいいですか❓」
という質問です😊
私の経験上、高校生の90%以上の生徒が「貴族❢」と答えます。
「貴族」の方が聞こえがいいのでしょうか😅❔
そして私はこのように生徒に返すのです。
「貴族は、現代で言うところのサラリーマンですよ。それに対し、豪族は現代で言うところの自営業者です。」と。
古代の天皇は、有力豪族(例えば、蘇我氏や大伴氏など)の合議によって選出される、という形式がとられていました。
ですから天皇と言えども、豪族たちの意見を無視して独自の政策を実現することは至難の業でした。
天皇が勝手なことをしている、と判断された場合、天皇が豪族によって暗殺されることもあり得たわけです。
6世紀末の天皇で、崇峻(すしゅん)天皇という天皇がいます。
この天皇は、蘇我馬子と対立した結果、馬子によって暗殺されてしまいました😨
天皇にとって豪族の勢力は、著しい脅威であったわけです。
豪族は、自らの力で土地と人民を支配し、天皇に勝るとも劣らない権力を持っていました。
天皇としても、何とかして豪族の勢力を低下させ、天皇の絶対的優位を確立する必要性を感じます。
そして、豪族に対する天皇の絶対的優位を確立する絶好の機会が訪れます😊
それが、「壬申の乱」でした。
壬申の乱につきましては、【日本史の考え方「関所:古代史編」】でご説明致しておりますので、ご参照下さい。
この壬申の乱で勝利した大海人皇子(のちの天武天皇)は、多くの豪族を没落させ、天皇権力を著しく向上させることに成功します。
そして天武天皇は、豪族を天皇のために尽くす役人(=官僚)にすべく、天皇のもとに集住させ、豪族が持つ様々な特権を奪っていきます。
天武天皇が藤原京を造営させたのは、このためでした。
藤原京は、結果的には、持統天皇・文武(もんむ)天皇・元明天皇の3代にわたる都となりましたが、本来は永続的に使用する都として想定されていました。
天皇が豪族に土地を与えることで、天皇の近くに豪族を集住させ、さらには位階・官職・給料を与えて、官僚として天皇のために尽くさせる。
この官僚こそが、貴族です。
豪族は天皇に並び立つ勢力を保持していましたが、貴族は完全なる天皇の家臣なのです。
天武天皇は、壬申の乱で勝利することで、豪族の貴族化を推進したのです。
藤原京を造営し、豪族を貴族として天皇の周囲に集住させ、豪族の特権を奪って、土地や給料を支給する。
さらに、藤原京以降の都には、国家的な儀式などを執り行う大極殿(だいごくでん)・朝堂院(ちょうどういん)が整備されていました。
国家的儀式は、天皇を中心として、天皇の指示に基づいて官僚(=貴族)が業務を分担します。
まとめると、このように考えることができます。
豪族の力が強く、天皇の力と並び立つような時代では、
天皇の居住空間である「宮」は、天皇一代ごとに造営され、豪族はそれぞれの根拠地に住居を構えて暮らしていた。
しかし「壬申の乱」を経て、天皇の力が豪族の力を大きく上回るようになると、
天皇は豪族の様々な特権を奪い、土地や給料を与えて臣下とし、その臣下の居住空間である「京」を造営することで、「宮」の周辺に集住させるようになった。
原則「宮」・「京」は、天皇が変ろうとも永続的に使用することが想定され、天皇が日本国の絶対的支配者として君臨する体制が確立することとなった。
このように考えてくると、藤原京という都は、天皇と天皇の臣下との決定的な身分の違いを示す重要な空間であったと思われます。
難関大学の入試問題では、ここまで考えさせます。
文字通り難関ではありますが、難関であるがゆえに歴史の真実に迫る深い授業を展開することが可能となります。
次回は、平城京についてのお話になりますが、もう一度質問させていただきます。
「皆さんは、貴族と豪族、なるとしたらどちらがいいですか❓」