今回は、「藤原京」と「平城京」について考えてみたいと思います。
まず、次の図をご覧ください。
左側が藤原京で、右側が平城京になります。
スマートフォンでは、上が藤原京で、下が平城京になっていると思います。
この2つの京の図は、高等学校で高校生に購入してもらう日本史図版などに載せられているものです。
この図をご覧になると、2つの京の形状にいくつかの違いがあることにお気づきになられるかと存じます。
難関大学の入試問題としても出題される「藤原京」と「平城京」。
この2つを授業でどのように扱うかは、とても重要であると私は考えています。
ここでは、
「吉田孝 『飛鳥・奈良時代』 日本の歴史【2】岩波ジュニア新書 2007年」
を参考に、授業を組み立てております。
まずは、「藤原京」についてです。
藤原京は、東西5.3㎞・南北5.3㎞の正方形の京域を持つ都です。
この後の時代に出てきます、平城京・長岡京・平安京などよりも規模が大きい都になります。
藤原京は、天武天皇(壬申の乱で勝利した大海人皇子が即位)によって建設が着手されました。
そして藤原京は、天武天皇の皇后(こうごう:天皇の正妻)であった持統天皇の時代に完成し、遷都(せんと)が行われています。
このあたりの知識は、大学入試センター試験レベルになります。
藤原京は、中国の儒教で重視される「周礼(しゅらい)」という書物の影響を強く受けて建設されています。
「周礼(しゅらい)」は、古代中国の理想的な国の制度について記した書物です。
この書物に書かれてある都の理想型は、「京」の中心に「宮」を配置する、というものでした。
改めて藤原京の図をご覧ください。
藤原京の中心に、小さな正方形で囲まれた領域があるのがわかります。
これが「藤原宮(ふじわらきゅう)」になります。
では、そもそも「宮」とは一体何でしょうか❓
「宮」とは、天皇の住居を指します。つまり皇居のことです。
古代には「宮」といい、天皇一代ごとに移り住んだのです。
そして、この「宮」が「京」の中心にあるのは、藤原京だけなのです😲❢
藤原京が造営された時代、中国では唐が統一王朝でしたが、唐の都長安の都市を見ると、「宮」は「京」の北側に位置しています。
平城京と同じような作りになっています。
さらにここでは、天武・持統天皇の時代に発行された貨幣について注目します。
この貨幣については、高校入試でも出題されたことがあります。
「富本銭(ふほんせん)」と呼ばれる貨幣です。
この貨幣は、中国の唐の貨幣である「開元通宝(かいげんつうほう)」を強く意識して鋳造された貨幣です。
しかし❢
上記の写真からもお分かりのように、「開元通宝」という貨幣は、「開元通宝」の文字が貨幣に4文字刻まれているのに対して、「富本銭」は「富本」の2文字です。
しかも、「富本」の左右には、七つの星が存在しています。
これは、中国の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ:古代中国の世界観のこと)を取り入れて、日本独自の貨幣を鋳造しています。
以上の説明からお分かりのように、「藤原京」にしても、「富本銭」にしても、日本の独自性が強く打ち出されています。
少し長くなりましたので、続きは次回とさせていただきたいと存じますが、この「藤原京」は、それまでの天皇が築いた都とは、全く異質な都市空間でした😲
難関大学の入試問題でも問われた、藤原京以前の都と藤原京の決定的な違いとは、一体何だったのでしょうか❓