以前、高校生から次のような質問を受けたことがあります。
遣唐使って、要するにどういう使節なのですか😅❓
遣唐使はなぜ海で遭難する場合が多かったのですか😓❓❓
さすがは高校生です。
なかなか核心をついた良い質問をしてくれます😊
ここでは、
「大津透『日本古代史を学ぶ』岩波書店2009年」
を参考に、この高度な質問に対する解答を考えます。
先ず、遣唐使は朝貢使(ちょうこうし)です❢
具体的に言えば、
元日朝賀(がんじつちょうが)という、唐で最も重要な儀式に参列する使節なのです。
中国皇帝の支配下にある国々の王は、皇帝に新年のお祝いを申し上げる儀式である、
元日朝賀に参列する必要がありました。
この元日朝賀に参列することこそが、朝貢でした。
朝貢は原則毎年行わなければならないものでしたが、当時の日本は正式に冊封体制(さくほうたいせい)の下にあったわけではありませんでした。
冊封体制下であれば、中国皇帝から「日本国王」の称号をもらい受けなければなりませんが、日本はこれを拒否していました。
しかし、中国皇帝に無礼なことはできませんので、おおよそ「20年に1回の朝貢」という約束だけは結ぶことになりました。
そして、中国皇帝はこれを認めました😲
中国皇帝からすれば、海のはるかかなたにある日本などは、その程度の存在だったのでしょう😓
遣唐使は東シナ海を通って中国を目指したのですが、台風シーズンの夏に日本を出発しています😨
当然ですが、遣唐使一行を乗せた船は台風に巻き込まれ、多くの尊い命が失われていきました。
これは、当時の日本人の気象に関する知識の薄さを示すのでしょうか❓
どうやら違うようです。
唐の沿岸に着いてから、様々な手続きを経て、陸路で唐の都である長安に到着するまで、何と❢半年程度かかったそうです。
つまり❢❢
元日朝賀に参列するには、気象条件が著しく悪くても、夏のうちに日本を出発しなければならなかったのです😢
まとめると次のようになります。
遣唐使は元日朝賀に参列する朝貢使。
元日朝賀に出席するためには、遭難の危険の高い、夏の台風シーズンに日本を出発しなければならなかった…。
これが遣唐使だったのです。
現代の感覚だと、中国に行くことはそれほど大変なことだとは思えませんが、当時の人の立場からすれば、まさに命がけの旅でした。
歴史で大切なのは、当時の立場や感覚を考慮することです。
現代の感覚で当時をみた場合、大切なことを見誤ってしまうかも知れません。
もう1つ面白い質問を受けました。
遣唐使は、中国での滞在期間に一体何をしているのでしょうか❓
実に面白い問い☻、です。
この問いに対する解説は、次回とさせていただきたいと存じます。